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日本史が好きになる?歴史ブログ

このブログを見て、少しでも歴史を好きになるお手伝いができれば良いと思います。

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黒船ペリー来航と日本の開国

1853年、日本にとって運命の瞬間が訪れます。 ペリーの来航です。 このペリー来航により、徳川幕府が崩壊して明治維新によって新政府が成立していく【幕末】の時代が始まります。 これまで徳川幕府の外交政策は、基本的に鎖国政策をとっていましたが、実際に…

水野忠邦の天保の改革

江戸の三大改革の最後、水野忠邦が行った【天保の改革】改革について書いていきたいと思います。 天保の飢饉や大塩平八郎の乱、さらに追い打ちをかけるかのように、日本近海に出現した外国船。そんな社会情勢の不安が募っていく中で将軍家斉が亡くなり、水野…

松平定信と寛政の改革

田沼意次にかわり幕府の財政再建を担ったのは、陸奥国白河藩主の松平定信でした。 定信は、徳川将軍家の一族である御三卿の一つ田安家の出身で、吉宗の孫にあたる人物でした。

田沼意次はどのような政治改革で江戸幕府を立て直そうとしたのか?

徳川吉宗が行った享保の改革で幕府の財政がやや上向きになりましたが、1732年の享保の大飢饉や百姓一揆や、打ちこわしなどが続き幕府は再び財政難に陥ることになります。 1745年に吉宗が将軍を引退し、9代将軍家重の時代になりますが、家重は言語障害があり…

遣唐使と古代日本における中国との関係性

古代日本における中国との関係は、当時の日本を知るにあたってとても重要な要素になります。 聖徳太子(厩戸王)の遣隋使派遣によって当時の強国【隋】と対等な関係を結び、外交関係上日本の立場を強くすることに成功しました。 時は流れ、618年に中国より強大…

ヤマト政権と聖徳太子【厩戸王】の国家改革

縄文時代や弥生時代には日本国内で記された史料がないため、邪馬台国や卑弥呼の存在や状況は【後漢書】東夷伝や【魏志】倭人伝となどの史料が手がかりとなります。 その手がかりである古代中国の史料も、卑弥呼が没した後の248年からの約100年間、史料には日…

ヤマト政権と仏教の伝来

私たちにも何らかの形で受け継がれているものに宗教があります。 日本人は、他の国より宗教については敏感ではありません。 身近な人が亡くなり、お葬式にに立ち会ってはじめて、自分たちの家系は○○宗だったのかと気が付くこともしばしばあります。これは、…

弥生時代を分かりやすくまとめてみました

弥生時代の名前の由来は【東京都文京区弥生町】の発掘調査で土器が見つかった事からつけられました。 縄文時代からの変化と言えば、金属の登場と稲作の普及が挙げられます。 しかし、金属器が登場したからと言って、100%の人が使っていたわけではなく、石器…

魏志倭人伝から邪馬台国を見る

紀元前4世紀~紀元後3世紀ころまでの時代を弥生時代と呼ばれていますが、大陸から渡ってきた稲作文化を持った人たちが暮らしていたとされています。 ※稲作文化は弥生時代以前も行われていたという説もあります。

本能寺の変の黒幕は誰だ!?光秀をそそのかした人はこんな人物だった!!

以前、本能寺の変の記事を書いた時に黒幕の話をしました。 事件の裏で明智光秀を扇動していた人物がいたのならいったい誰なのか? 現在、色々な容疑者が浮上しています。

江戸幕府と朝廷の関係は?関係悪化を防ぐための幕府の戦略とは?

江戸幕府は、征夷大将軍を朝廷より任命されて初めて成り立ちます。 そのため、朝廷との関係も上手く築いていかなくてはいけませんでした。 この記事では「朝廷」との関係に焦点を当て、幕府が慎重かつ大胆に関係を築かなければならなかった朝廷との関係をわ…

日本史・世界史による時代区分は解釈によって分け方が変わってくる!?

歴史を学ぶときは流れを覚えていくと良いのですが、学校で歴史を習う時は教科書に書かれている時代区分に基づいて各単元を習うことが多いです。 【鳴くよウグイス平安京】とか【鎌倉時代はイイクニ作ろうだよ】など学びました。 歴史と言うのは、日々の研究…

本当は動物愛護法?徳川綱吉の生類憐みの令は悪法だったなのか?

江戸時代通じて生類憐みの令ほど、有名な政策はないことでしょう。 15代将軍も、家康・家光に次ぎ綱吉の名前だけは知っていると言う人も多い事だと思います。それほど、綱吉の行った生類憐みの令がインパクトのある政策であることが分かります。 犬を殺した…

徳川綱吉は、犬公方のバカ殿と言われていたが、実は名君だった!!

徳川綱吉と聞くと、【犬将軍】【生類憐みの令】を思い浮かべる人は多いと思います。 生類憐みの令は、生き物を殺傷したらその人は、重い罰を受けてしまうと言うイメージは誰もが持っていると思います。 しかし、いつの世もこのようなスキャンダラスな事柄は…

徳川家康の死因はてんぷらを食べ過ぎてでなくて胃がんだった!?

関ケ原の戦いのあと、1603年に征夷大将軍となり江戸幕府を開いた徳川家康。応仁の乱より始まった戦国時代の大名としてもいくつもの修羅場をくぐってきた彼は、豊臣家滅亡を確認するかのように1616年に死去します。 享年75歳で当時としては長命で、徳川歴代将…

徳川幕府と外様大名の関係

関ヶ原の戦いで幕府を起こし、大坂の陣を経て徳川家による本格的な幕藩体制がスタートします。各大名家はある程度の統治の権限を保ちながら徳川家の臣下となることで、徳川将軍家は、直接または間接的に全国を統治していきました。

幕府の財政再建と徳川吉宗の享保の改革

徳川家綱から始まった文治政治の影響と、米価の下落対策をせずに放置した事により、幕府の財政難は深刻なものとなっていました。 そんな中、7代目家継に代わり、徳川吉宗が8代目将軍に就任しました。

鎌倉幕府の成立が1192年(イイクニ)から1185年(イイハコ)になったのはどうしてか?

1192年 源頼朝が征夷大将軍に任命されて鎌倉幕府を開いた。 【イイクニ(1192)作ろう鎌倉幕府】 私が日本史を習ったときは、こう教えられました。 しかし、歴史は新たな解釈や発見が起こるたびに変わります。鎌倉幕府成立も例外ではなく、今の教科書には1192…

織田信長はどうして今川義元を桶狭間の合戦で討つことが出来たのか?

1560年、駿河の大名今川義元が上洛を目指すために、織田信長の領土である尾張への侵攻を始めます。 今川家は、室町幕府の守護大名から名門の家柄です。 駿河、遠江、三河の3ヶ国を治める義元に対し、信長は尾張一国を統一したばかりでした。この時点での兵…

わかりやすい関ケ原の戦いの経緯と合戦までの流れ

織田信長の突然の死によって天下統一の機会を捉えた豊臣秀吉は、子飼いであった旧信長の家臣をも取り込み、見事に天下統一を果たします。 天下の治世を円滑に行うため秀吉は、大老職と奉行職を政権内に配置します。大老の筆頭であった徳川家康は主に軍事関係…

江戸時代の流れ ~将軍家綱による文治政治の始まりによる幕藩体制の安定~

江戸幕府初期の初代家康~3代家光までは、武力を背景とした大名統制を行っていました。これを武断政治と呼びます。 武家諸法度違反と称し、言うことを聞かない大名は、片っ端から取り潰していき、1600年~1640年までの改易数は198の大名家が取り潰しとなりま…

江戸幕府の成立と幕府の体制(家康~家光)

江戸時代は、1603年~1868年まで260年以上も続きました。 始まりは徳川家康が征夷大将軍になった1603年、終末は1867年の大政奉還までが江戸時代だと一般的に言われています。 この江戸幕府は、鎌倉・室町幕府と続く日本で最後の武家政権となります。

徳川家康の天下統一と江戸幕府の始まりの流れ

豊臣秀吉の死後頭角を現したのが、徳川家康です。 徳川家康は織田信長の盟友であったため、一時期は信長の後継者を狙う豊臣秀吉と小牧・長久手の戦いで、合戦を繰り広げたこともありました。しかし、秀吉が関白に就任し、五大老(重要政務を行う役職)の一員と…

豊臣秀吉の天下統一までの流れ

豊臣秀吉と言えば、農民の出でありながら、織田信長のなしえなかった天下統一を果たした出世人として有名です。 歴史の教科書では、信長が本能寺にて倒れた後、天下統一事業を引き継いだと書かれています。では、秀吉は本能寺の変後、どのようにして天下統一…

治承・寿永の乱(源平合戦)に参加した人たちの思惑を調べてみる

1179年に発生した治承三年の政変。これに伴い、後白河院の第3皇子以仁王が挙兵。諸国に令旨(王の命令)を出し様々な勢力も挙兵していきます。 なぜ反平氏に至ったのか? なぜ以仁王の令旨に従ったのか?? 事情が分かれば源平合戦に発展した理由も見えてく…

治承三年の政変までの流れを調べてみる

平氏が滅亡したとして有名な壇ノ浦の戦いは、源平の間で富士川の戦いや倶利伽羅峠の戦いなど何度も起こった争乱の果てに起こったものです。これらの戦いは総称して治承・寿永の乱と呼ばれています。元々、治承・寿永の乱はクーデターを起こした平清盛ら平氏…

これまでの徴税と土地制度を変えた太閤検地

これまでの荘園公領制は、複雑な支配関係がありました。しかし、鎌倉時代になると、地頭たちによる浸食を受けて、室町時代には守護大名がその権限を拡大して支配力を強めていきました。 応仁の乱後、戦国大名が国を治めるようになると、従来の重層的な土地制…

戦国時代の大名と家臣との関係

応仁の乱以降、下剋上の風潮が高まっていき、守護大名の代わりに国を治めていた守護代や国人達が守護大名に代わり国を治めようと独立して戦国大名として成長していきました。 この時代、戦国大名たちが自分たちで作り上げた支配地を領国と呼び、その支配体制…

公家たちが反平氏に回ったもう一つの理由

家柄のあまり良くない平氏が太政大臣にまでのぼりつめ、摂関家領を横領したということで反感を買っていたんじゃ?って話を以前(後白河院と平清盛参照)しましたが、それと同時に平治の乱に至るまでに信西の一件(平治の乱はどんな経緯をたどったのか?)が…

源頼朝の血筋は途絶えていた、鎌倉幕府9代将軍と執権北条氏

一般的に幕府と聞くと、将軍様を思い出します。室町幕府では足利氏が江戸幕府では徳川氏が代々将軍として幕府に君臨していました。 よって鎌倉幕府の創始者は源頼朝なので、代々源氏が将軍だったのだろうと思いますが、少し勝手が違うようです。 良く考えて…

安土桃山時代から江戸時代までの流れ

安土桃山時代は諸説ありますが、ここでは1573年足利義昭追放から1603年徳川家康が征夷大将軍になるまでの時代とします。 この時代には大きく分けて、織田信長が中央政権を取っていた時期と豊臣秀吉が政権を握っていた時期と分けられます。この2人の名前を取…

後白河院と平清盛

後白河院と平清盛の話をする前に二人の関係を語るには欠かせない、平滋子という女性がいます。平滋子の調整があって初めて後白河院ー清盛態勢が上手く築けていたと言っても過言ではありません。 滋子は元々鳥羽院の娘・上西門院に仕えていたところを姉で清盛…

戦国大名の軍事力はどれくらい?

戦国時代の合戦と聞くと華々しく勇壮なものが多い。1560年の桶狭間の戦いでは、大軍率いる今川義元軍に対し織田信長は少ない兵でこれを撃破しました。 1575年の長篠の戦では、織田信長の鉄砲隊により、武田家のお家芸であった騎馬隊をせん滅させました。この…

二条親政派の瓦解

平治の乱で後白河院政派の政治の要である信西(藤原通憲)と藤原信頼が死亡。元々天皇となるための教育を受けたわけじゃない後白河院は、この二人が亡くなったことで政治力を大きく失います。 そうなれば二条親政派の勝利になるのでは??と思いますが、そう…

平安~鎌倉時代の戦は一騎打ちが基本!?武士同士の戦いの進歩

日本の歴史を見ていくと数々の戦いがあり、どれも両軍が入り乱れて生きるか死ぬかの壮絶なものを想像します。しかし、平安~鎌倉時代の戦いはとてもクリーンで分かりやすいものだったそうです。 その戦の方法とは…

本能寺の変。なぜ明智光秀は信長に反旗を翻したのか?

天正10年(1582)6月2日明智光秀は本能寺に宿泊中の織田信長を襲撃し、自害へと追い込みます。これが一般的に知られる【本能寺の変】です。 これまで光秀の謀反の動機は、戦国時代最大の謎として様々な説が挙げられてきました。今回は、明智光秀による本能寺…

信長は、天下布武の後天皇や朝廷をどうするつもりだったのか?

悠久の歴史を誇る天皇と朝廷にも改革の手を伸ばそうとしていた信長。 正親町天皇の退位勧告や朝廷からの三職就任の保留などから何らかの改革をしようと考えていたのかもしれません。もしかしたら旧権力に頼ることなく、信長自身が絶対的な神となり強力な秩序…

平治の乱はどんな経緯をたどったのか?

平治の乱(1159年)は、保元の乱(1156年)の戦後処理に不満を抱いた勢力が平清盛らに挑んだ戦いと言われ結局は仕掛けた方が敗戦。この戦いで信西(藤原通憲という人物が出家)という実力者が亡くなったことで、平清盛に権力が集中し始めます。 今回は平清盛…

反信長勢力による【信長包囲網】 第3期 1575年~1582年

長年にわたり信長を苦しめてきた、朝倉・浅井が滅び、武田家も風前の灯火となりもはや敵なしと思われましたが、まだ大坂に本山をおく本願寺が残っていました。 本願寺は8世法主蓮如の頃に北陸へと勢力を伸ばしており、特に加賀では門徒持ちの国とし戦国大名…

反信長勢力による【信長包囲網】 第2期 1572年~1575年

浅井・朝倉家との和睦と延暦寺焼き討ちにより、第一次信長包囲網が終結しました。しかし、信長の困難はまだ終わりません。反信長勢力は勢力を維持したままで、そのほとんどは打倒信長の機会を狙っていました。 そんな中、信長への不満を募らせていたのが、15…

井伊家の生い立ちと女城主井伊直虎

井伊家はもともと遠江国引左郡井伊谷を支配する豪族でした。 応仁の乱後は、守護職の斯波義龍に属して、遠江を侵攻してきた駿河守護の今川家と対立していました。しかし、今川家が遠江の守護職を得ると、井伊家はその支配下に置かれます。 この時、今川家は…

反信長勢力による【信長包囲網】 第1期 1568年~1571年

織田信長は1567年【天下布武】のキャッチフレーズのもと足利義昭を奉じて上洛する事に成功します。しかし直後に反対勢力による抵抗を受けて窮地に立たされることになります。 1568年頃から1582年の本能寺の変までの10年以上にも及ぶ信長の天下布武への厳しい…

保元の乱の戦後処理

平治の乱が起こった原因となった保元の乱の戦後処理について考察しながら探ります。 キーパーソンは保元の乱で参謀のような役割をしていた信西という人物。信西は後白河天皇と共に保元の乱の後の体制を整えていきました。この信西と保元の乱後の体制がどうな…

わかりやすい保元の乱

保元の乱の裏事情でも書きはしたのですが、文字が多かったので関係図付きで分かりやすく?説明できればなぁと思います。

織田信長の天下布武は最初は小さい天下だった!?将軍追放との関係とは…

天下統一と聞くと一般的に全国を平定すると捉えますが、最近の研究では必ずしも 天下=全国ではないと言う考え方があるそうです。 そのため、信長が岐阜城を拠点とした頃に考えた『天下布武』が全国を武を持って治めると言う意味ではないと言うのです。 美濃…

織田信長の目指す天下布武とは?

文献や教科書などでよく見かける【天下布武】の主印判。天下布武と聞くと、武力を持って天下を制するイメージがしますが、本当のところはどうなんでしょうか? 今回は、織田信長のスローガンでもあった【天下布武】について考えていきます。

平安時代から鎌倉時代への流れ

長かった平安時代も終わりがようやく見えてきて鎌倉時代に移りそうなので、少し表にまとめてみます。

信長から秀吉・家康へ…兵農分離の目的と身分の確定

一般的に兵農分離は、豊臣秀吉が太閤検地、刀狩、人掃令を出して身分をはっきり出した政策の事を書かれます。しかし、その基本的な事は織田信長が考え、秀吉が発展させて、江戸時代に徳川家康が完成をさせます。 信長以前までは、兵と農の身分に線引きが明確…

戦国時代の天才軍師、竹中半兵衛と黒官兵衛の絆

戦国時代の天才軍師といえば、竹中半兵衛と黒田官兵衛の戦国二兵衛が有名です。 私がイメージする軍師像は、君主の側にいつもいて、戦などの戦術や作戦を練ったり、その君主が困った時の相談役というイメージがあります。 しかし、当時の信頼できる文章の中…

保元の乱の裏事情

平安から鎌倉時代に移行する流れを知るのに避けられない争いが保元の乱と平治の乱、そして治承・寿永の乱です。 簡単に言うと・・・ 保元の乱:後白河天皇と崇徳上皇の間に起きた皇位継承問題が摂関家の内部争いと絡んで戦いに発展したもの。後に犬猿の仲と…