日本史が好きになる?歴史ブログ

このブログを見て、少しでも歴史を好きになるお手伝いができれば良いと思います。

戦国時代

本能寺の変の黒幕は誰だ!?光秀をそそのかした人はこんな人物だった!!

以前、本能寺の変の記事を書いた時に黒幕の話をしました。 事件の裏で明智光秀を扇動していた人物がいたのならいったい誰なのか? 現在、色々な容疑者が浮上しています。

織田信長はどうして今川義元を桶狭間の合戦で討つことが出来たのか?

1560年、駿河の大名今川義元が上洛を目指すために、織田信長の領土である尾張への侵攻を始めます。 今川家は、室町幕府の守護大名から名門の家柄です。 駿河、遠江、三河の3ヶ国を治める義元に対し、信長は尾張一国を統一したばかりでした。この時点での兵…

わかりやすい関ケ原の戦いの経緯と合戦までの流れ

織田信長の突然の死によって天下統一の機会を捉えた豊臣秀吉は、子飼いであった旧信長の家臣をも取り込み、見事に天下統一を果たします。 天下の治世を円滑に行うため秀吉は、大老職と奉行職を政権内に配置します。大老の筆頭であった徳川家康は主に軍事関係…

徳川家康の天下統一と江戸幕府の始まりの流れ

豊臣秀吉の死後頭角を現したのが、徳川家康です。 徳川家康は織田信長の盟友であったため、一時期は信長の後継者を狙う豊臣秀吉と小牧・長久手の戦いで、合戦を繰り広げたこともありました。しかし、秀吉が関白に就任し、五大老(重要政務を行う役職)の一員と…

豊臣秀吉の天下統一までの流れ

豊臣秀吉と言えば、農民の出でありながら、織田信長のなしえなかった天下統一を果たした出世人として有名です。 歴史の教科書では、信長が本能寺にて倒れた後、天下統一事業を引き継いだと書かれています。では、秀吉は本能寺の変後、どのようにして天下統一…

これまでの徴税と土地制度を変えた太閤検地

これまでの荘園公領制は、複雑な支配関係がありました。しかし、鎌倉時代になると、地頭たちによる浸食を受けて、室町時代には守護大名がその権限を拡大して支配力を強めていきました。 応仁の乱後、戦国大名が国を治めるようになると、従来の重層的な土地制…

戦国時代の大名と家臣との関係

応仁の乱以降、下剋上の風潮が高まっていき、守護大名の代わりに国を治めていた守護代や国人達が守護大名に代わり国を治めようと独立して戦国大名として成長していきました。 この時代、戦国大名たちが自分たちで作り上げた支配地を領国と呼び、その支配体制…

戦国大名の軍事力はどれくらい?

戦国時代の合戦と聞くと華々しく勇壮なものが多い。1560年の桶狭間の戦いでは、大軍率いる今川義元軍に対し織田信長は少ない兵でこれを撃破しました。 1575年の長篠の戦では、織田信長の鉄砲隊により、武田家のお家芸であった騎馬隊をせん滅させました。この…

本能寺の変。なぜ明智光秀は信長に反旗を翻したのか?

天正10年(1582)6月2日明智光秀は本能寺に宿泊中の織田信長を襲撃し、自害へと追い込みます。これが一般的に知られる【本能寺の変】です。 これまで光秀の謀反の動機は、戦国時代最大の謎として様々な説が挙げられてきました。今回は、明智光秀による本能寺…

信長は、天下布武の後天皇や朝廷をどうするつもりだったのか?

悠久の歴史を誇る天皇と朝廷にも改革の手を伸ばそうとしていた信長。 正親町天皇の退位勧告や朝廷からの三職就任の保留などから何らかの改革をしようと考えていたのかもしれません。もしかしたら旧権力に頼ることなく、信長自身が絶対的な神となり強力な秩序…

反信長勢力による【信長包囲網】 第3期 1575年~1582年

長年にわたり信長を苦しめてきた、朝倉・浅井が滅び、武田家も風前の灯火となりもはや敵なしと思われましたが、まだ大坂に本山をおく本願寺が残っていました。 本願寺は8世法主蓮如の頃に北陸へと勢力を伸ばしており、特に加賀では門徒持ちの国とし戦国大名…

反信長勢力による【信長包囲網】 第2期 1572年~1575年

浅井・朝倉家との和睦と延暦寺焼き討ちにより、第一次信長包囲網が終結しました。しかし、信長の困難はまだ終わりません。反信長勢力は勢力を維持したままで、そのほとんどは打倒信長の機会を狙っていました。 そんな中、信長への不満を募らせていたのが、15…

井伊家の生い立ちと女城主井伊直虎

井伊家はもともと遠江国引左郡井伊谷を支配する豪族でした。 応仁の乱後は、守護職の斯波義龍に属して、遠江を侵攻してきた駿河守護の今川家と対立していました。しかし、今川家が遠江の守護職を得ると、井伊家はその支配下に置かれます。 この時、今川家は…

反信長勢力による【信長包囲網】 第1期 1568年~1571年

織田信長は1567年【天下布武】のキャッチフレーズのもと足利義昭を奉じて上洛する事に成功します。しかし直後に反対勢力による抵抗を受けて窮地に立たされることになります。 1568年頃から1582年の本能寺の変までの10年以上にも及ぶ信長の天下布武への厳しい…

織田信長の天下布武は最初は小さい天下だった!?将軍追放との関係とは…

天下統一と聞くと一般的に全国を平定すると捉えますが、最近の研究では必ずしも 天下=全国ではないと言う考え方があるそうです。 そのため、信長が岐阜城を拠点とした頃に考えた『天下布武』が全国を武を持って治めると言う意味ではないと言うのです。 美濃…

織田信長の目指す天下布武とは?

文献や教科書などでよく見かける【天下布武】の主印判。天下布武と聞くと、武力を持って天下を制するイメージがしますが、本当のところはどうなんでしょうか? 今回は、織田信長のスローガンでもあった【天下布武】について考えていきます。

信長から秀吉・家康へ…兵農分離の目的と身分の確定

一般的に兵農分離は、豊臣秀吉が太閤検地、刀狩、人掃令を出して身分をはっきり出した政策の事を書かれます。しかし、その基本的な事は織田信長が考え、秀吉が発展させて、江戸時代に徳川家康が完成をさせます。 信長以前までは、兵と農の身分に線引きが明確…

戦国時代の天才軍師、竹中半兵衛と黒官兵衛の絆

戦国時代の天才軍師といえば、竹中半兵衛と黒田官兵衛の戦国二兵衛が有名です。 私がイメージする軍師像は、君主の側にいつもいて、戦などの戦術や作戦を練ったり、その君主が困った時の相談役というイメージがあります。 しかし、当時の信頼できる文章の中…

尾張守護大名斯波氏と守護代織田家の関係

以前、織田信長の記事を書いた時、織田と名前のつく人物がたくさん出てきて、誰が誰だかわからなくなったので今日は、織田家について調べましたので書いていきます。 織田氏はもともと、尾張の守護大名斯波(しば)氏の家臣の家柄です。 尾張守護斯波氏のも…

徳川家康はどうして260年続く天下泰平の基礎を作ることが出来たのか?

織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の3人は戦国時代と言う怒涛の時代を生き抜きました。 そして、最終的には徳川家康が天下をとり260年続く江戸幕府を開くことが出来ました。信長、秀吉にもできなかった安定的な政権をどうして家康は実現することが出来たのでしょ…

豊臣秀長、兄秀吉の補佐役に徹した生涯

太閤秀吉の弟にもかかわらず多くは語られていない人物、豊臣秀長。この人の果たした功績は大きく、握った権限も著しく強いものでした。 116万石の大大名となり、従二位権大納言の高位を賜り、天下の政にも深く関わった人物は織田信長・豊臣秀吉・徳川家康の…

織田信長はどうして居城を次々と変えていったのか?② 岐阜城~安土城 

稲葉山の戦いで宿敵斎藤家を討ち滅ぼした織田信長。ここからよいよ信長は天下統一へと加速していくことになります。 稲葉山城※陥落後、信長は小牧山から稲葉山への拠点移動を決断します。 そして、城と町の名前を【稲葉山】から【岐阜】と名づけました。 古…

織田信長はどうして居城を次々と変えていったのか?① 那古屋城~小牧山城

織田信長を調べていくと、居城を次々に変えていくことが分かります(当時の戦国大名たちは、本拠地をあまり変えることをしませんでした)。 この記事では、信長の戦略・領地展開を居城の移転という視点から見ていきます。 信長はこれまで、那古屋城 ⇒ 清須城…

戦国時代に人口が増えていた?

日本での戦国時代とは、たくさん争い事をしていて人がたくさん死んでいったイメージが強いですが、実は戦国時代には人口が増えていたのです。 それではどうして人口が増えていったのでしょうか?