日本史が好きになる?歴史ブログ

このブログを見て、少しでも歴史を好きになるお手伝いができれば良いと思います。

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明治時代

そもそも帝国主義が蔓延した理由って何??

明治以降、立て続けに起こった複数の戦争は『帝国主義』と呼ばれる思想・政策が日本含む多くの国で推し進められてきたことと無関係ではありません。 どういった状況が帝国主義に繋がっていったのかを調べていこうと思います。

日露戦争の負担による国民の不満

戦費負担に不満が爆発した国民 日露戦争に勝利しましたが、日本側も満身創痍で余裕の勝利とは行きませんでした。 その戦費の国民負担は甚大で、限界を超えていました。 一方ロシアでも、革命の機運が高まり国内の政治は危機的状態にありました。 ヨーロッパ…

世界が驚いた小国日本による日露戦争の勝利

朝鮮半島と満州をめぐりロシアとの緊張感が高まった日本でしたが、1903年から日露交渉が進められてきまいした。 交渉の中、日本国内ではロシアとの交戦論が強まり、近衛篤麿が対露同志会を組織して、ロシアに対する強固な外交を主張します。一方で、交戦論に…

現在の47都道府県は、実は再編途中だった!?

私たちの日本では、明治時代から47都道府県に区分されています。これらが定められたのは、明治初期に行われた廃藩置県によるものです。 rekishi-note.hatenablog.com これは、新政府による中央集権化を図るために、大久保利通が推し進めてきました。 当初は…

ロシア帝国とのにらみ合い

日本はロシアの南下政策に備えて軍備拡張を進めてきました。それと同時に、中国・朝鮮への侵攻を進めていく事で列強と並んで帝国主義を形成していきます。 日清戦争後の三国干渉を経て政府は、対ロシア戦を想定して軍備拡張を中心とする戦後経営計画を立てて…

ロシア・フランス・ドイツによる三国干渉

日清戦争で勝利をした日本は、1895年に下関条約を締結し清国と講和をしました。 条約の内容は、清国は朝鮮を完全な独立国として認める事、遼東半島及び台湾・澎湖諸島を日本に譲る事、賠償金二億両(約3億1000万)を日本に支払うことを盛り込み、さらに、沙市…

朝鮮をめぐり日本と清が激突する日清戦争

日本は日朝修好条規の締結で朝鮮を開国させ、大陸進出の足掛かりを得ました。 rekishi-note.hatenablog.com 以降、朝鮮半島は二度にわたる日清代理戦争の舞台となります。

40年がかりの不平等条約の改正

不平等条約の改正交渉 江戸幕府が欧米諸国と結んだ不平等条約の領事裁判権撤廃と関税自主権の回復は、富国強兵を目指す明治政府の重要な外交課題となっていました。 rekishi-note.hatenablog.com

憲法作成と帝国議会の成立

ドイツを参考にした立憲君主制 1881年に政府が出した国会開設の詔と同時に憲法制定の準備にかかりました。 明治十四年の政変によって、天皇と政府に強い権限与える立憲君主制の方針を固めた政府は、1882年に伊藤博文らをヨーロッパに派遣をして憲法の調査に…

インフレ解消を目指した松方財政と近代日本型資本主義の始まり

インフレの解消を目指した松方財政 明治の始まりから頻発していた農民一揆や士族の反乱、自由民権運動の対応に追われていた政府は、早くも財政問題に直面します。

全国に波及した国会開設要求

政府の内紛をきっかけに明治十四年の政変 士族の権利を求めた自由民権運動は一時下火となっていましたが、国会開設を求める運動として再加熱して、地主などの地方の有力者や都市の商工業者も巻き込んで全国に拡大していきました。

豪農商を巻き込んだ国民運動『自由民権運動』

1874年1月に征韓論争で敗れて新政府から離れた板垣退助・後藤象二郎・江藤新平によって建白書が提出されます。 rekishi-note.hatenablog.com

日本最後の内乱、西南戦争と西郷隆盛

明治政府発足後、近代化政策を推し進めた結果、旧武士階級である士族たちの特権が次々と奪われていきました。 また、戊辰戦争で新政府軍に加わってた士族たちの中にも、自分たちの主張が新政府の政策に反映されなかったことから、政府に対する不満が燻ってい…

政府内を引き裂いた征韓論争

1873年(明治6年)に、外務省から朝鮮問題についての議案が出されました。その内容が、朝鮮の【非礼】を正すための軍事行動を起こすと言うものでした。 この発議がキッカケで、新政府が真っ二つに割れる【征韓論争】が始まります。 そもそも朝鮮の非礼から始ま…

岩倉使節団による世界一周

1871年に岩倉具視を団長とする大使節団が結成されました。 使節団に参加したのは、大久保利通、木戸孝允、伊藤博文の政権有力者で、使節46名、随員18名、留学生43名の総勢107名の大所帯でした。 藩閥出身の有力者を大使や副使に据えて、国際事情に精通した旧…

活発する征韓論と日本の対外進出

明治初期の日本を取り巻く世界情勢は、植民地獲得を進める帝国主義時代に突入していました。 このような状況下で明治政府は、欧米諸国と同じようにアジア諸国に対して高圧的な外交政策を行っていきます。

明治政府主導による産業の近代化

諸外国と肩を並べることを目標に明治政府は、富国強兵を推進してくと同時に、国内の産業育成政策を政府主導で推し進めます。 日本史ではこれを殖産興業と呼ばれています。

封建的な身分制度の廃止、四民平等と富国強兵策

明治政府は、国家の中央集権化と近代化を推し進めていましたが、同時に封建的な身分制度の廃止も進めていきました。 そこで政府は、1869年の版籍奉還後に、封建的な主従関係を解消することを目的として、公家及び大名達を全て華族とし、武士は士族として2つ…

封建制度から中央集権国家へ新明治政府誕生

1867年の王政復古の大号令によって新明治政府が誕生しました。 樹立した新政府の陣容は、土佐・越前・尾張などの公議政体派の諸侯も交えた雄藩連合的な人選でした。しかし、戊辰戦争で武力討幕派の薩長軍が勝利したことによって、政局内で主導権を握るように…

日本史最大の内乱、戊辰戦争終結による新政府の全国支配の確立

1868年1月3日に京都郊外の鳥羽・伏見において薩長の藩兵で構成された新政府軍と旧幕府軍が戦闘状態に入ります。 この戦いが鳥羽・伏見の戦いです。 数では旧幕府軍が多かったのですが、指揮系統の不備が原因で敗退します。 さらに翌日には、薩長軍が朝廷より…

富国強兵を体現した日本での鉄道敷設と軍隊の関係性

19世紀前半にイギリスでは、蒸気機関による鉄道が実用化されて以降、鉄道は文明の発達に大きな役割を果たしていました。 一方で日本では、明治維新後の1872年(明治5年)には、早くも最初の鉄道が新橋から横浜間に開通して、日本の近代化を加速させていきまし…

大国イギリスと小国日本が結んだ日英同盟の裏事情

日清戦争の結果、極東地域における日本の発言力が大幅に上がりました。 その一方で、清の弱体化により欧州各国が東アジア進出をもくろんでいました。 下関条約へのロシア、フランス、ドイツなどによる日本への三国干渉などに代表されるようにその動きは露骨…

日本の首都が東京ではなく広島だった時期があった!?

日清戦争は、朝鮮に対する宗主国として立場を主張する清とその宗主国を否定して朝鮮から清を排除しようとする日本との対立が主な原因です。 そして、その主戦場は朝鮮半島とその周辺海域になると誰もが予測していました。

なぜ日本は不利と言われた日清戦争と日露戦争に勝てたのか?

明治維新から20年あまり、富国強兵により急速に国際化を進めてきた日本にとっては、近隣諸国との良好な関係構築は急ぎの課題でした。 しかし、周囲の国は政治的に不安定な朝鮮半島をめぐり日本と利権を争っていた大国・清や北方に広大な国ロシアが領土拡大を…

肥前の妖怪・鍋島直正を見てみよう

明治維新の功労藩の名を表す『薩長土肥』の『肥』は『肥前』すなわち『佐賀』を指しています。その中でも『肥前の妖怪』という二つ名を持つ鍋島直正は希代の名君としても知られています。 今回はそんな佐賀藩の取り組みと蘭学狂いとまで言われていた鍋島直正…

明治の初めに日本で一番人口が多いのは、東京ではなく新潟だった!?

現在の日本の人口分布は、東京を中心とした関東圏に一極集中しています。 しかし、江戸時代には300近い藩が全国にあることから分かるように、かつての日本は今よりも地方の方が活気がありました。

自由民権運動の激化と国会開設

大隈重信と伊藤博文の対立 全国の民権派が集まり、結成された愛国社は、国会期成同盟と改名されて国会開設の要求をしますが却下されます。 中には、国会開設を求める参議もいました。その中の一人が、大隈重信です。 大久保利通の暗殺後、政府の中心は大蔵関…

日露戦争勝利による日本の影響

1904年、日本とロシア帝国は、朝鮮と満州の支配権をめぐる対立から争いが起き、日露戦争に発展します。その主戦場は、朝鮮半島と満州南部、日本海にも及びました。 1905年9月5日にアメリカの仲介により日本とロシアは、ポーツマス条約を締結することで講和を…

日本がアジアの大国清と戦った日清戦争の簡単な流れと下関条約

1894年~1895年まで行われたアジアの大国である清との戦い、それが日清戦争です。 アジアの外交政策において朝鮮半島は、重要な位置を占めていました。 朝鮮は長い間、中国(清)の影響下にありましたが、そこを足掛かりに日本は、大陸に進出したいと考えてい…

明治初期の国際問題 【不平等条約改正と征韓論~西南戦争まで】

明治政府の外交課題は、幕末から引き継がれていた不平等条約の改正が最重要課題でした。 そのため、1871年(明治4年)に岩倉具視を大使として、木戸孝允・大久保利通・伊藤博文らの岩倉使節団がアメリカやヨーロッパに派遣されました。