日本史が好きになる?歴史ブログ

このブログを見て、少しでも歴史を好きになるお手伝いができれば良いと思います。

スポンサードリンク

活発する征韓論と日本の対外進出

明治初期の日本を取り巻く世界情勢は、植民地獲得を進める帝国主義時代に突入していました。 このような状況下で明治政府は、欧米諸国と同じようにアジア諸国に対して高圧的な外交政策を行っていきます。

明治政府主導による産業の近代化

諸外国と肩を並べることを目標に明治政府は、富国強兵を推進してくと同時に、国内の産業育成政策を政府主導で推し進めます。 日本史ではこれを殖産興業と呼ばれています。

封建的な身分制度の廃止、四民平等と富国強兵策

明治政府は、国家の中央集権化と近代化を推し進めていましたが、同時に封建的な身分制度の廃止も進めていきました。 そこで政府は、1869年の版籍奉還後に、封建的な主従関係を解消することを目的として、公家及び大名達を全て華族とし、武士は士族として2つ…

封建制度から中央集権国家へ新明治政府誕生

1867年の王政復古の大号令によって新明治政府が誕生しました。 樹立した新政府の陣容は、土佐・越前・尾張などの公議政体派の諸侯も交えた雄藩連合的な人選でした。しかし、戊辰戦争で武力討幕派の薩長軍が勝利したことによって、政局内で主導権を握るように…

日本史最大の内乱、戊辰戦争終結による新政府の全国支配の確立

1868年1月3日に京都郊外の鳥羽・伏見において薩長の藩兵で構成された新政府軍と旧幕府軍が戦闘状態に入ります。 この戦いが鳥羽・伏見の戦いです。 数では旧幕府軍が多かったのですが、指揮系統の不備が原因で敗退します。 さらに翌日には、薩長軍が朝廷より…

王政復古の大号令による幕府の廃止と公議政体派と討幕派の攻防

大政奉還によって実質政権を返上した徳川慶喜は、薩摩・長州藩の武力討幕派に対して先手を打ち政権掌握の機会をうかがっていました。 rekishi-note.hatenablog.com 現在の朝廷では政権を運営できるだけの能力がないと踏んでいたので、大政奉還後も旧徳川幕府…

長州討伐失敗の原因ともなった一揆や打ちこわし

幕末期の幕府を動揺させたのは、外国勢や諸藩の尊攘・討幕運動だけではなく、全国各地で発生した民衆運動『世直し一揆』もありました。 このような世直し一揆の発生は、民衆による徳川幕府への不信任表明の表れで、結果として幕府滅亡へのカンフル剤となりま…

大政奉還による幕府の思惑

長州討伐の失敗と将軍の死 1866年の第二次長州討伐で長州藩に返り討ちに合い惨敗をしてしまった幕府軍は、その後まもなくして、14代将軍・家茂が戦陣で病没します。敗北を悟った幕府側は、長州藩との停戦を決定します。 この戦いでの敗北で、権威も落ちると…

日本で開催された冬季オリンピックの歴史

2018年2月9日~2月25日まで韓国の平昌にて冬季オリンピックが開催されます。 皆さんもご存じの通り、オリンピックには夏季と冬季の2つオリンピックがおり、それぞれ4年に一回の周期で開催されています。 今日は、平昌オリンピックが近いという事で、日本で行…

犬猿の仲だった薩長が同盟締結!!坂本龍馬の仲介による薩長同盟

八月十八日の政変以降、仲が悪くいがみ合っていた長州・薩摩両藩でしたが、同時期に藩論を討幕へと舵を切りました。 当時の長州藩は、幕府による二度の長州討伐令を前に存亡の危機にさらされ、薩摩藩では、独自の幕政改革が頓挫して打開策に悩む日々でした。…

長州藩・高杉晋作のクーデターと薩摩藩の討幕への転換

高杉晋作のクーデターと長州藩の討幕の転換 長州藩内の保守派による尊攘派弾圧の前にやむなく九州へと逃れた高杉晋作でしたが、幕府の征長軍が撤退すると、ただちに長州へ帰還します。 戦わずして幕府に降伏した保守派に反旗を翻し、藩の実権を取り戻すべく…

禁門の変と第一次長州征伐

長州藩と言うと尊攘や討幕のイメージが強いですが、当初は【朝廷に忠節・幕府に信義、先祖に孝道】の三大キャッチフレーズを掲げて、過激な対立構造とは一線を画していました。

島津久光による文久の改革と八月十八日の政変

1862年(文久2年)に上洛した島津久光は、朝廷への公武合体推進するために働きかけます。この働きかけが実り、久光は勅使を擁して江戸に下り幕政改革を求めます。 幕府は勅使を受け入れ、幕政改革を行います。この一連の改革を文久の改革と呼ばれています。

テロの温床と化した京都の警察組織【新撰組】の誕生

安政の大獄以降、過激な攘夷論は下級武士の達の間で特にくすぶり続けていました。 1859年に条約通り、横浜、箱館、長崎が開港されたよ翌月には、横浜で水戸藩士たちによるロシア人士官襲撃事件が起きます。この事件をきっかけに、外国人襲撃事件が各地で起こ…

桜田門外の変と坂下門外の変による幕府権威の失墜

大老・井伊直弼による通商条約の勝手な調印と将軍後継ぎ問題の強固なやり方は、参与の外様大名をはじめとする一橋派の反感を買うとともに、尊王論者と攘夷論者の双方からも強い反発を招きます。

開国と井伊直弼による安政の大獄

安政の改革と日米修好通商条約締結 ペリー来航前より老中・安倍正弘は、幕政の改革の必要性を感じ着手します。この改革を安政の改革と呼ばれ、幕府三大改革の享保の改革、寛政の改革、天保の改革に次ぐ改革とされています。

尊王攘夷運動の高まりと吉田松陰

ペリーの黒船来航以降、相次ぐ異国船の来航やそれに伴う摩擦とアヘン戦争・アロー戦争での清国の敗北は、日本の外交姿勢を根本から変える出来事でした。 公武合体に至るまでの幕末初期は、幕府を中心とした【開国派】と朝廷を中心とする【攘夷派】の対立とし…

天下布武を目指した織田信長の軍事改革②【効果的な兵器の活用】

信長の軍事改革の第二弾は、合戦を冷静に分析し、戦況に応じた武器を投じた効果的な兵器の活用術を見てみたいと思います。

天下布武を目指した織田信長の軍事革命 【方面軍の創設】

織田信長は、他の戦国大名に先立ち最新兵器の鉄砲を大量に導入や方面軍の創設などの様々な軍事改革を行い、天下布武に邁進しました。 最新兵器の活用、独特な戦術や家臣の能力を最大限引き出した人材活用術を取り上げながら、織田信長軍団を紐解いていきます…

不利な状況から勝利を掴んだ戦国時代の名采配

戦国時代の多くの武将の見せ場はやはり合戦でした。全国各地、大なり小なり多くの合戦が各地であり、その数だけドラマがありました。 今日はその中から、不利な状況から見事な名采配で勝利を引き寄せた織田信長と北条氏康、豊臣秀吉の合戦を紹介していきます…

富国強兵を体現した日本での鉄道敷設と軍隊の関係性

19世紀前半にイギリスでは、蒸気機関による鉄道が実用化されて以降、鉄道は文明の発達に大きな役割を果たしていました。 一方で日本では、明治維新後の1872年(明治5年)には、早くも最初の鉄道が新橋から横浜間に開通して、日本の近代化を加速させていきまし…

律令政治で地方に作られた国府とは?

飛鳥時代後期から平安時代初期にかけて日本は律令国家でした。 律令国家とは、【全ての国民と国土は、天皇の支配を受ける】とおり、天皇を中心とした中央集権を目指した政治体制でした。 中大兄皇子が蘇我氏を倒して、大化の改新によって律令政治が始まった…

大国イギリスと小国日本が結んだ日英同盟の裏事情

日清戦争の結果、極東地域における日本の発言力が大幅に上がりました。 その一方で、清の弱体化により欧州各国が東アジア進出をもくろんでいました。 下関条約へのロシア、フランス、ドイツなどによる日本への三国干渉などに代表されるようにその動きは露骨…

絵で見る・律令制への道【蘇我氏の台頭】

大化の改新のきっかけとしてお馴染みの蘇我氏。律令制という歴史的に見ても重要な制度が作られた背景を語る時、乙巳の変、大化の改新、白村江の戦いは避けて通れません。 そんな一連の政治改革に至った背景は近隣諸国の事情も重なって結構複雑だったりします…

日本の首都が東京ではなく広島だった時期があった!?

日清戦争は、朝鮮に対する宗主国として立場を主張する清とその宗主国を否定して朝鮮から清を排除しようとする日本との対立が主な原因です。 そして、その主戦場は朝鮮半島とその周辺海域になると誰もが予測していました。

なぜ日本は不利と言われた日清戦争と日露戦争に勝てたのか?

明治維新から20年あまり、富国強兵により急速に国際化を進めてきた日本にとっては、近隣諸国との良好な関係構築は急ぎの課題でした。 しかし、周囲の国は政治的に不安定な朝鮮半島をめぐり日本と利権を争っていた大国・清や北方に広大な国ロシアが領土拡大を…

日本での最も古い国技・相撲の歴史について

わが国での相撲と言う競技は【国技】となっていますが、今のような土俵上で行われる形式が日本独自であることからそう呼ばれているそうです。 相撲のように人が組合い、力比べすると言う意味では、人間の本能的なものですから、日本だけではなく【相撲のよう…

日本の小麦の伝来とパンの歴史

パンの原料となる小麦が歴史上に登場したのは約9000年前の事です。 その小麦から作られたパンは、貴重な食料として古来より神様の贈り物として、日々の食事はもちろん、お祝い事などにも用いられていたそうです。

絵で見る!弥生時代から古墳時代

弥生時代から古墳時代にかけての当時の状況はよく分かっていません。大和王権がそもそも最初から畿内に拠点を置いてたか?もはっきりしていません。 そのうえで個人的に一番しっくりくる説を都合よく脳内補完して書いてます。ご注意下さい。

【北条早雲】下剋上への道 其三 相模平定と北条氏5代

北条早雲による相模平定 早雲は、扇谷上杉家・上杉朝良から軍事協力の求めを大義名分として相模国の統一を目指します。