日本史が好きになる?歴史ブログ

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「荘園って何?」 その2   ー班田収授法以降の土地制度ー

「荘園って何?その1」の続きです。

 

飛鳥時代律令制度導入後、平安時代の前期までと班田収授法はそれなりに機能してきたのは確かですが、逃げ出す人が増えたことで徐々に成り立たなくなってきたことは前回お伝えしました。

 

今回は、班田収授法が徐々に成り立たなくなってきた課程を書いていこうと思います。

 

まず、当時の農民の生活について。彼らは口分田以外にも乗田と呼ばれる班田で余った無主の田地を耕したり寺社・貴族の土地を借りて見返りの米を納めたり(賃租)、租・調・庸や兵役・雑徭・運脚などの税負担など厳しい生活を送っていました。

 

そもそも、古代における水田の開発対象は湧水が利用できるような場所...例えば谷地が割と適していたそうです。ところが、弥生時代以降の傾向と同様、大宝律令制定後も人口は増加(下図参考)していきます。当然全員が田に適した土地が与えられるわけではありませんし、自宅から遠く離れた田を割り当てられることも出てくるでしょう。

 

 

f:id:miumaga:20140712043524g:plain出典:図録▽人口の超長期推移(縄文時代から2100年まで)より

   ( ↑ 鉄製農具の普及や工作技術の進歩も人口増加の一因だと考えられているようです)

 

 

そんなわけで、近くに貴族がいれば土地を借りて耕作している方が少ない負担で働けただろうことが想像できます。それでも負担が重いと感じる人は最終手段に出ることになります。「逃亡」です。

 

勿論、逃亡するのは米を納めることだけが理由じゃありません。前回書いたこととかぶりますが・・・

 

7世紀後半から8世紀にかけての藤原京平城京、ほぼ同時並行に進められた難波京大阪市)や恭仁京京都府加茂町)といった都の建設は人々が逃亡するのに拍車をかけていたようです。逃亡した者たちは捕まれば再度現場に送り返されるか処罰を受けることになるため浮浪人も多かっただろうと考えられます(参照:日本の歴史 飛鳥・奈良時代律令国家と万葉びと」より)。

 

 

 

そんな中、都では人口が増加し地方での税収増加が不可欠になってきました。そこで、奈良時代723年三世一身法という未開地を開墾した場合には三世代にわたる保有を、旧来の灌漑施設を利用した開墾の場合には本人一代限りの保有を認める法を新たに作ります。ところが、未開地を開墾するには多大な労力がかかるため、民間での効果は薄いものでした。

 

そんな理由から743年、新たに墾田永年私財法を定めます。これは、開墾した土地が永久に開墾者のものとなる法律で、一時的な効果を上げました。

 

同時に、寺院や貴族、地方豪族らの私有地を拡大させることに繋がります(この法律では、位による面積制限が認められていたので寺院や貴族らに有利に働いていたようです)。そして私有地を拡大する時に貢献したのが口分田を捨てた者達です。彼らを通じて大規模な開墾を行い、私有地を拡大することができました。これを初期荘園と呼びます。

 

初期荘園墾田地系荘園とも呼ばれていますが、この時点ではまだ律令体制から脱却しておらず、(税)を納める必要がありました。この後さらに荘園は変化していくことになります。