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日本史が好きになる?歴史ブログ

このブログを見て、少しでも歴史を好きになるお手伝いができれば良いと思います。

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古墳時代ー飛鳥時代、豪族の対立に至るまでの経緯2

前回は5世紀頃の継体朝、大伴氏と物部氏の台頭までを書きました。

 

まずは日本の古代史には欠かせない朝鮮半島情勢を見てみます。

 

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5世紀に入ってからの朝鮮半島では北部の高句麗が南下政策をはじめており、百済新羅は同盟関係を結んでいます。高句麗の南下政策は、当時の中国が(五胡)十六国時代南北朝時代の移行期で混乱していたことも背景にあるのでは?と思われます。

 

一方で、日本と最も関係の深かったのは伽耶(かや、加羅とも言われる)南部と言われています。伽耶は滅亡まで一つの国に統合する事のなかった国の集合体のような?国です。

 

伽耶諸国の中でも其々隆盛の時期があり、はじめの頃は金官国(きんかんこく)高句麗が先進地域の金官国を中心に攻めていたこともあり)、5世紀後半からは内陸部に合った鉄の生産で優位に立っていた伽耶(だいかや)が発展した地域でした。

 

日本は、資源の輸入のためにも朝鮮半島での影響力は保持したい立場にあります。そんな理由から朝鮮半島諸国の抗争の中、優位に立つため高句麗伽耶に攻めることもあったようです(元は高句麗に対抗するため百済伽耶南部・日本間で同盟関係が出来ています)。

 

こんな混乱してやまない朝鮮半島情勢の中、伽耶は徐々に勢力をそがれることになります。実際に、6世紀初めの継体朝(けいたいちょう)では重要問題の一つとして朝鮮半島との関係が挙げられています。尚、この時期に朝鮮半島南部で台頭していたのは新羅です。

 

ここで継体朝百済伽耶南部は救援を求めることとなります。結局527年、継体天皇新羅征伐のための出兵を命じています。が、新羅も当然対策します。

 


朝鮮半島への出兵の際、重い負担がかかるのはやはり九州北部。そこで新羅は九州北部にある筑紫の国造「磐井」に賄賂を贈り取り込んだそうです。元々継体天皇は正当な後継者か怪しいとの説もある人物。その結果、磐井の乱と呼ばれる反乱にまで至ったとされています。


磐井の乱平定後、新羅出征をしますが時すでに遅し。新羅は既に強くなっており、出征は失敗に終わります。

 

 

磐井の乱物部氏は中心的な働きをした一方、朝鮮半島関係の責任者は大伴氏。(第29代)欽明(きんめい)朝において物部氏はその責任を追及し、大伴金村は隠居。大伴氏の全盛期を終える事にはなりますが、その後も度々大伴氏は歴史の表舞台に顔を覗かせています。

 

※なお、継体天皇没後は皇統が分裂しているので、第26代から一気に第29代になったように見えるだけで時期的にはそう変わりません。

※大伴氏の末裔で有名なのは「大伴家持(おおとものやかもち)」。『万葉集』の歌人として国語の教科書で見たことがあると思います。

 


この欽明朝ですが、今後に影響する重要な出来事が起こります。まず第一に仏教の伝来。これは現在に至るまで大きな影響を与えています。第二に蘇我氏の娘を娶ったことです。

 

 

蘇我氏は渡来人との関係の深い豪族です。渡来人も多くいる品部のリーダー大伴氏が失脚後の朝鮮半島との関係を結ぶのには最適な氏とも言えます。実際には大伴氏失脚の前から蘇我氏は大臣についていたわけですが。それが大伴氏を失脚させる前準備だったかどうかまでは定かではありませんが勘ぐってしまいますね。

 

 

ともかく百済から伝わったとされる仏教を推すのは蘇我氏にとって自然な成り行きです。

 

一方で、物部氏にとれば面白い訳がありません。元来、物部氏は日本古来の宗教とも関わりある職能についていたとされていますし、欽明朝仏教が広まればますます蘇我氏が大きくなります(実際に朝廷側の意図としても物部氏の権力を抑えたいという意図が見え隠れします)。

 

ここから蘇我氏物部氏の対立が本格化していきますが、結果はご存知の通り。崇仏派の蘇我氏に軍配が上がった訳です。

 

以前書いた記事、銃・鉄・病原菌にもあるように仏教が入るとほぼ同時に天然痘と思われる疫病が入って来てるため、蘇我氏の影響力が下がることもありました。が、欽明朝で大臣になった蘇我稲目(そがのいなめ)以降、特に物部氏を打って以降は蘇我氏の一極体制が続きます。

 

後の歴史書に書かれたことなので蘇我氏を殊更悪く書いてあるようですが、まぁ、その専横ぶりはすごいものがあります。天皇の暗殺なんかも噂される程です。

 

当然反発を招き、乙巳の変(いっしのへん、おっしのへん)まで至ることとなりますが、また改めて書かさせて貰います。なお、現在では大化の改新と呼ばれる出来事は中大兄皇子中臣鎌足蘇我入鹿を倒した後の一連の政治改革を指していると言われています(H27.2.22文章訂正しています)

 

 

なお、蘇我稲目が大臣になれた理由に奥さんの存在があったそうで、古墳時代、豪族の対立に至るまでの経緯を調べてみる にも書いた、古くに台頭していた葛城氏の娘が蘇我稲目に嫁いでいます。

 

 

古墳〜飛鳥時代にかけての豪族対立については此処までです。思っていた以上に長くなりましたが、何となくの流れは以上です。

 

 

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