読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

日本史が好きになる?歴史ブログ

このブログを見て、少しでも歴史を好きになるお手伝いができれば良いと思います。

利用枠の上限について スポンサードリンク

大化の改新と律令制

飛鳥時代

古墳時代ー飛鳥時代、豪族の対立に至るまでの経緯を調べてみる その2にあった豪族同士の対立…最終的には大化の改新まで至ったという話でしたが、今回はその大化の改新が始まるまでの状況、更にはその先の出来事に焦点を当ててみます。なお、前回は人に焦点を当てたのに対して今回は政策などに焦点を当てています。

 

邪馬台国論争と同様「大化の改新」の実態は未だに掴めていません。実際に、教科書でも様々な書き方がなされていてハッキリとしていません。

 

 

「大化改新」隠された真相―蘇我氏は本当に逆臣だったのか?

「大化改新」隠された真相―蘇我氏は本当に逆臣だったのか?

 

今回はこちらの本を使って要約した表を作ってみたので、それを元に探っていくことにします。ではどうぞ。

 

 

まず、大化の改新について簡単に。

 

最近「大化の改新中大兄皇子中臣鎌足による蘇我入鹿暗殺事件」ではなく、蘇我入鹿蝦夷が暗殺された出来事はその干支から「乙巳(いっし)の変」と呼ばれることが多くなりました。基本的に大化の改新とは、基本的には蘇我氏宗家滅亡後の政治改革を指しています。

 

下の図は古墳時代飛鳥時代にかけての倭国(ヤマト政権)及び周辺諸国の状況です。オレンジの矢印が軍事衝突、緑がその出来事がどう影響したか?を表しています。

 

f:id:miumaga:20150226214838p:plain

 新羅高句麗に接近

  ・・・見た書籍には時期が書いていなかったが文脈的にこの時期だろう、と判断。

     新羅はともかく外交が巧みで上手く周辺国を利用しているのが伺える。

 

まず、4~5世紀頃に注目してみます。百済伽耶そして倭国で同盟を結び、現・中国周辺の混乱に乗じて南下を始めた高句麗と戦っています。この結果は現・吉林省で発見された広開土王碑好太王とも)に高句麗が勝利した旨が記述されています。

 

伽耶は国のような集まりでできた集合体のような国で、ヤマト政権はその伽耶を影響下に置いていました(諸説あり)百済もまた非常に倭国とは近い関係にあり、人や文化の交流も活発でした。遅くとも552年(538年説もあり)には百済聖王が送った学者らによって仏教が伝わっています。

 

 

なお、百済視点だと倭国仏教を伝えたのは朝鮮半島での地位を優位にする戦略のためだと思われます。高句麗の軍事的圧力が増したため538年に天然の要塞のような地域(扶余)に首都を移すなど緊迫した情勢でした。実際、仏教を伝えた聖王は何度も倭国に援軍を要請しています。

 

 

この仏教を巡って対立した、当時の有力豪族・蘇我氏(崇仏派)と物部氏(排仏派)ですが、結果、587年蘇我氏が権力を得ることに成功しました。彼らは渡来人を支配下に置き、周辺諸国の動向に相当詳しかったようです。 この物部氏との争いの際に決着をつけた中心的な人物が蘇我馬子(そがのうまこ)と厩戸皇子(うまやどのおうじ=聖徳太子)です。

 

 

 

ちょうどこの時期を遡ること6年、581年に中国ではという統一王朝ができていました。これをきっかけに朝鮮半島情勢は更に複雑な事態に陥ります。

 

は北方に突厥(とつけつ)という異民族との問題を抱えていました。そこで高句麗突厥が結ぶのを恐れ、3度高句麗に攻め込み失敗します。ここで新羅が益々力をつける事になります百済は552年に新羅に裏切られて以降高句麗とは面していないため)が、建国当初は一国だけで強い国力を持つ圧倒的な国が近くに出来たという事実が近隣諸国に重くのしかかったことと思われます。

 

 

 

場所は倭国に戻ります。に備えようというのは何も陸続きの国だけとは限りません。倭国も同様だったと考えられます。の水軍を構成する楼船という船も軍隊も圧倒的だと見られるからです。

 

         f:id:miumaga:20150226131327j:plain

船には投石器が設置され、火矢による火災を防ぐための工夫が施されています(写真は裏辺研究所さんの『所長の北京弾丸旅行』より)。 

 

 

そんな中で物部氏を滅ぼした後、588年飛鳥寺の建立が始まっています。これは飛鳥に都を作るための布石と見られ、蘇我氏が主導してます。飛鳥は防御のしやすい天然の要塞のような場所で、百済扶余という拠点とよく似ているそうです。ここら辺の事情から、周辺諸国の動向を考えての遷都だったという線が浮かんできます。

 

更に、592年には当時の天皇崇峻天皇が暗殺。蘇我馬子により推薦されて即位した天皇でしたが、事実上の実権は蘇我氏が持っており不満を感じるようになっていました。これが拗れて暗殺という出来事にまで発展しています(本当に蘇我馬子が殺されそうになったために先手を打っただけなのか?政治的な意図はなかったんだろうか?もう少し文献を漁って見ます)

 

ところが、天皇暗殺という異常事態にも関わらず、周りはそんなに動揺していません。それどころか暗殺の1か月後には宮を移して推古天皇が即位…なんて状況です。そのため、推古天皇(即位前は吹屋姫)はじめ他の皇族や豪族らも関与していたためでは?と言われています。

 

その1年後、聖徳太子摂政(=天皇の補佐役)となって蘇我氏と共に積極的な外交政策に乗り出し、600年に第1回の遣隋使を送りましたがに軽くあしらわれます。ここら辺から聖徳太子天皇の権威を高め、国内の制度を充実させる方針となっていきます。その制度が、冠位十二階の制度であり憲法十七条です。特に冠位十二階の制度では、それまでと異なり個人が昇進可能な制度となっています。

 

 

この制度の在り方に加えて、後々聖徳太子の子「山背大兄王(やましろのおおえのおう)」の一族を蘇我入鹿が滅ぼしていること、日本書紀の書かれ方から「蘇我氏=専横が酷い」という印象がになりがちですが、この山背大兄王蘇我入鹿の従兄にあたります。つまりは、皇室とのパイプの一つが途切れることを意味しています。

 

長くなったのでこの辺で。