日本史が好きになる?歴史ブログ

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大化の改新と律令制 その2


大化の改新と律令制 - 日本史が好きになる?歴史ブログ

 

前回の記事の続きです。蘇我入鹿聖徳太子の子・山背大兄王(やましろのおおえのおう)を廃したことが必ずしも蘇我氏にとってプラスに働いたわけではないことまで話しました。では始まりです。

 

あまりに関係者がごちゃごちゃしているので、私なりに関係者との関係性をまとめてみました。今回はwikiも参考にしています。一応、大化の改新にあまり関係なさそうな兄弟姉妹はかなり省いています。

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大王(天皇蘇我氏が強い姻戚関係で結ばれていることが良く分かるかと思います。

 

6世紀初頭に25代武烈天皇崩御後、かなり遠い地から継体天皇が迎えられて即位していますが、その後も王権が安定しません。そこで王権の安定のためにも有力豪族との関係を構築することが急務となりました。その結果、上図のような入り組んだ系図となっています。

 

 

飛鳥時代の始まりに直接的に関わっていた推古天皇ですが、後継者を指名していません。その際に候補として挙がったのが山背大兄王田村皇子(たむらのおうじ)になります。結局、田村皇子舒明天皇として即位。諸説ありますが、推古天皇山背大兄王に「未熟者」という類の遺言をした(当時まだ若かった)位危なっかしかったという説や蘇我氏系の天皇を続けないことで蘇我勢力との対立を防ぐためという説などがあります。

 

この推古天皇舒明天皇ですが、蘇我馬子の娘や蘇我蝦夷の娘、更に舒明天皇の異母弟の娘・寶女王(=たからのみこひめ、後の皇極天皇斉明天皇)と婚姻関係を結びます。その際、蘇我馬子の娘との間に古人大兄皇子という男児をもうけている他、皇極天皇との間に中大兄皇子(後の天智天皇)、第40代の天武天皇を授かっています。

 

さて、この舒明天皇崩御後も後継者選びが難航していました。この時の候補は、表にある黄色の線で引かれた4人…古人大兄皇子(ふるひとのおおえのみこ)軽皇子(かるのみこ)、そして山背大兄王中大兄皇子です。中でも最も皇位に近かったのが山背大兄王だったと言われています。

 

ところが、この山背大兄王蘇我蝦夷から跡を継いだ蘇我入鹿に自害へ追い込まれてしまいます。

その理由として『藤原氏家伝』では、皇位を望む自己主張が激しい他、630年に来日した唐の使節と礼を争うなどの行動から蘇我入鹿「乱」となることを憂慮していたと指摘されています。そして、この『藤氏家伝』では山背大兄王殺害は蘇我入鹿だけでなく、軽皇子中臣氏大伴氏まで関わっていたと書かれているようです。

 

結果、舒明天皇崩御後は一時的に皇極天皇皇位につきますが、最終的には軽皇子孝徳天皇と名を変えて即位。では次は誰になるでしょう??

普通に考えると、古人大兄皇子中大兄皇子です。中大兄皇子蘇我氏の娘と婚姻関係にあり、蘇我氏と全く関係のない立場ではありません。ところが、蘇我入鹿中大兄皇子には決定的に政治方針が異なりました。

 

 ◎ 蘇我入鹿 ・・・ 飛鳥の防衛を固めつつ百済以外にとの融和路線を図る

            (飛鳥周辺の寺の配置や難波の港整備の痕跡などから推測)

 ◎ 中大兄皇子 ・・・ 古人大兄皇子中大兄を指して「百済」とあだ名する

            ほど百済寄り(=保守的なスタンス?)と推測

 

 

 

こうなると蘇我氏が推すのは一人(=古人大兄皇子)のみになってしまうわけです。だとすると中大兄皇子の立場は非常に厳しくなってきます。いつ消されるか分からない状況です。ここから乙巳の変に繋がっていったと考えられます。

 

孝徳天皇は645年ー654年が在位期間。崩御後は再び斉明(皇極)天皇が655年ー661年まで在位しています。この間にあった関係の在りそうな出来事(直前も含む)を整理していきます。

 

  645年 ・・・ 7/10  中大兄皇子中臣鎌足らにより蘇我入鹿暗殺

         7/11  蘇我蝦夷自殺 ⇒ 蘇我氏宗家滅亡

         7/12  皇極天皇退位 ⇒ 孝徳天皇即位

         7/17  日本で初めての年号「大化」と定める

           10月  古人大兄皇子を征討

         12月  難波長柄豊碕宮に遷都

 

あり得ないほど周到に用意されているように見えます。この時、軍師のような働きをしたのが中臣鎌足ではないかとされているようです。続けていきます。

 

   646年 ・・・ 改新の詔(=新しい施政方針を示したもの)

 

この時に、公地公民制租庸調の税制班田収授法が確立したことを『日本書紀』は伝えています。ところが、後に詔の内容は後世に書き足したものだと判明。この改新の詔の時に…つまりは大化の改新律令制の方針が明らかにされた訳じゃないことが最近分かってきています。

 

※ 班田収授法や租庸調については「荘園って何?」 その1 ―飛鳥時代からの土地の制度について― に書いてます。


 

   655年 ・・・ 孝徳天皇崩御

   656年 ・・・ 斉明天皇即位

   660年 ・・・ 百済滅亡

   661年 ・・・ 百済奪還のために兵を整えている最中、斉明天皇崩御

 

大体、こんな流れです。斉明天皇中大兄皇子の母親で政治の実権は主に中大兄皇子が採っている他、重臣の一人として中臣鎌足の名前も見られます。

 

結局、百済奪還のための出兵は663年になります。この時の戦いを白村江(はくすきのえ)の戦いと呼び、新羅の連合軍に大敗します。

 

この戦いがあって以降、各地に堤や山城を築き国土防衛を強化し、豪族のを取りまとめて序列化するために甲子(かっし)の宣を出して国政改革を断行。飛鳥にある宮から大津宮へ遷都した中大兄皇子は668年、天智天皇として即位します。

 

その後、日本で初の全国規模の戸籍を作成したり班田収授法が実際に発足されたりして律令国の礎を築いていきます。

 

日本という国号は645年時にはあったという旨が日本書紀には書かれているが定かではありません。ただ、678年に制作されていると考えられる墓誌には日本天皇という言葉が書かれており、強力な中央集権国家を作る上で必要な名称だったように思います。

 

 

「大化改新」隠された真相―蘇我氏は本当に逆臣だったのか?を見ると新しい視点ながらも納得できる部分も結構ありました。

 

この本では、大化の改新律令国になったわけでなく実際は白村江の戦いが分岐点ということ、乙巳の変では蘇我入鹿だけが悪党だったわけではなく後継者争いの一つだったということが大体書かれていました。この流れなら何となく律令国家へ転換せざるを得ない状況が分かる気がしますので、私自身はこの説はありかと思います。

 

 

下には、ベースの本の他に参考にした書籍を載せておきます。興味があれば見てみてください。

 

オールカラーでわかりやすい! 日本史

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総図解 よくわかる 古代史

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