日本史が好きになる?歴史ブログ

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斉明天皇が崩御した朝倉橘広庭宮のことを調べてみる

こないだの壬申の乱の記事よりも少し時間は遡り、白村江の戦いで本拠地(のようなもの)となった朝倉橘広庭宮について調べていきます。朝倉宮と言われることもある場所です。

 

いわく付きの伝説がある宮なので、いつもと若干違う感覚で楽しめる?と思います。

 

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福岡県の朝倉市に橘の広庭公園という公園があります。この周辺に朝倉宮があったとされ、橘の広庭公園内部には朝倉宮に関する石碑や神社を見ることが出来るそうです。以下の文は石碑近くの案内板にある文には、朝倉宮が出来た背景が書かれています。

 

4世紀末、朝鮮半島百済高句麗新羅の三国に分割され、7世紀に至るまで和戦を繰り返していたが、660年7月、百済はついに新羅・唐の連合軍に亡ぼされ、同年10月、かつてから親交関係にあった日本へ使者を遣わし救済の要請をしてきた。斉明天皇中大兄皇子らは、その要請を受け入れ、救援軍を派遣することを決定した。


翌661年1月6日、天皇は、中大兄皇子(後の天智天皇)、大海人皇子(後の天武天皇)、中臣鎌足らと共に難波の港から海路筑紫に向かい、1月14日四国の石湯行宮に到着し、3月25日那大津(博多)に至り、磐瀬宮(三宅)をへて5月に朝倉橘広庭宮に遷られた。しかし天皇は滞在75日(7月24日)御年68歳で病の為崩御された。


現在、朝倉橘広庭宮の所在は分かっていないが、地元の伝承では「天子の森」付近だといわれており、本町恵蘇宿の恵蘇八幡宮の境内付近には、中大兄皇子が喪に服したといわれている「木の丸御殿跡」や斉明天皇の御遺骸を仮安置したといわれる「御稜山」が存在する。

 

天子の森は橘の広庭公園敷地内にある森で、斉明天皇が政務を執った場所と言われています。また、斉明天皇崩御された後に仮に葬った陵墓が恵蘇八幡宮(←木の丸公園というまた別の公園内にあります)裏手にある※2二基の円墳だという伝承があります。

 

※恵蘇八幡宮は朝倉宮を遷す際に国の発展と勝利を祈願するために作られ、宇佐八幡宮祭神・応仁天皇を祀っています(後に斉明天皇天智天皇の2柱も祀ることに)。

※2.実際には5世紀ごろに作られた古墳だとされているため、斉明天皇の陵墓ではないと考えられます。

 

そして、その境内付近にある「木の丸御殿」は、説明の通り喪に服すために作られた御殿ですが、木皮のついた丸木の柱をそのまま使った形状から名前を付けられました。

 

 

 

さて、ここからが本題です。実は「日本書紀」では朝倉宮については異例の出来事が次々に起きたことが書かれています。 斉明天皇七年(661)の出来事です。

 

五月の乙未朔癸卯(九日)に、(斉明)天皇、 朝倉橘広庭宮 に遷りて 居 ます。

 

是の時に、朝 倉 社の木を断り除いて、此の宮を作る故に、神忿りて殿を壊てり。亦、宮の中に鬼火見れぬ。

 

是に由りて、大舎人及び諸の近く侍、病みて死れる者衆し。秋七月の甲午の朔丁巳(二十四日)に、天皇、朝倉宮に崩りましぬ。

 

http://emisi.com/semi/18semi/resume/tamaki-3.pdfより引っ張ってきました。蝦夷関連のpdfファイルです。斉明天皇についてもっと詳しく知りたい方は日本書紀 巻第廿六

 

遷都の際に使った木が朝倉社という神社の木を切り払ったものだったので神様が怒ってしまい、御殿を取り壊し(雷が落ちたそうです)宮中に鬼火まで出現。さらには、大舎人や近侍で病に倒れたり死に至るものも多く、終いには斉明天皇までもが病に倒れ、崩御することになった、という感じです。

 

さらには、こんなことも書かれています。

八月(はつき)甲子(きのえね)朔(ついたちのひ) 皇太子(ひつぎのみこ)奉徙(ゐまつる)天皇喪(みも) 還至磐瀨宮(いはせのみや) 是夕(よひ)於朝倉山(あさくらのやま)上 有鬼 着(きる)大笠(おほかさ) 臨視喪儀(よそほひ) 衆(ひとびと)皆嗟怪(あやしぶ) 

 

そのまま原文に振り仮名がついた文章を引用させてもらったものなので読みにくいですが、 要は8月1日中大兄皇子天皇のご遺体を運ぶ日の夕方に、朝倉山の山頂で大笠を着た鬼が葬列を見下ろしていた、と書かれているわけです。

 

この頃の「鬼」の概念が正直わからないので、次回あたり調べていこうと思います。鬼について調べていくとまた違った視点で見れそうですね。

 

とにかく、斉明天皇の死に「鬼」の存在や「祟り」のようなものが描かれているわけです。

 

ここで疑問なのが、斉明天皇崩御した年齢が当時としてはかなりの長寿の68歳ということなので亡くなったとしても驚きはしないのですが、なぜ態々死因に鬼や祟りの存在を絡ませたのか?ということです。

 

単に日本書紀を書くにあたり、白村江の戦いでの敗戦を暗示させただけという可能性もあります。が、個人的にそれまで歴代天皇について語り、その正当性を示してきた日本書紀にしては違和感がある訳です。


斉明天皇日本書紀編纂を指示した天武天皇の関係性はどうだったのか?親子間、兄弟間(実権を握っていた中大兄皇子(=後の天智天皇)大海人皇子(=後の天武天皇))との間に何もなかったのか??そこらへんを調べていくと面白いかもしれません。

 

 

・・・本当言うと朝倉宮が福岡にあったという説が有力ではありますが、伊予の国(愛媛)の今治にも朝倉という地名があり、その付近も怪しいのでは?と言われております。調べれば調べるほどドツボに嵌りそうなので、今回は福岡県説中心に取り扱っていますが、また別の説もいずれ取り上げてみたいですね。

 

ちなみに、「綾鼓(あやのつづみ)」という能楽作品で上演されています。あらすじは能 綾鼓で載ってます。こちらも怨霊が出て来るお話。「綾鼓」は後世に作られたであろうお話ですが、やはり鬼や祟り・怨霊といった悪いモノ?と切っても切り離せないようです。