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日本史が好きになる?歴史ブログ

このブログを見て、少しでも歴史を好きになるお手伝いができれば良いと思います。

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国際都市・平城京

奈良時代

前回は終戦記念日ということで少し趣向を変えた記事を書いてみましたが、再び奈良時代へと戻ります。

本日のテーマは、国際都市としての平城京です。では、始まります。

 

 

 

先の飛鳥時代以降続いていた遣唐使も引き続き送っていたことからも分かるように、奈良時代は外国との行き来が多い時代とも言えます。

 

ただし、有名なのは遣唐使ですが唐の都・長安まで行くにはかなりの距離がありますので、実際に最も多くやり取りをしたのは新羅の人々となります。続いて朝鮮半島北部から中国東北部にかけてあった渤海の人々。互いに使者のやり取りをしていました。それ以外には天竺(インド)や林邑(ベトナム)からの僧侶も来ていたと言われています。

 

会話や意思疎通は・・・というと、想像通り中国語と考えられているようです。とは言え、外国からの外交官の場合はそれぞれに通訳ががあったため、通訳を介して交渉がなされていました。

 

 

彼らのような海外から日本に来た人々の中には、国を代表とする使者、僧侶、商人がいたと言われています。

 

その中でも商人たちは主に福岡県の筑紫館(つくしのむろつみ)という役所で交易を行っていたので、平城京まで来ることはそこまでなかったようです。この筑紫館ですが、交易の場としての役割だけではなく平城京へ向かうルートの最初の地点としても存在していました。来日理由や荷物の検査等、今で言う税関のような役割もありました。

 

そうは言っても、これは福岡に近い朝鮮半島からの使者が主に適用されていたようですが。渤海からの使者たちは海流の関係もあって日本海沿岸にやってくることが多くありましたので、本来正式な窓口であるはずの筑紫館は通らずに、そのまま到着した場所の近くの役所へ滞在してから(正当な理由であれば)そのまま案内役と共に陸路で平城京へと向かったそうです。

 

では、どんな理由があって来日したのでしょうか?その目的は様々です。当然、相手国との力関係や国際情勢などにより変わってきます。また、使者自身が多くの品々を持ってきて交易を行う事もありました。そうした品々のやり取りをしていた証拠として正倉院には交易したモノの伝票が数多く残っています。貴族や上流階級の人々は競うように、それらの品々を買ったと言われています。

 

 

次に諸説ありますが、僧侶の目的を書いていきたいところですが、これだけで一記事かけそうなので、別の記事で鑑真を例に挙げながら書いていきたいと思います。