日本史が好きになる?歴史ブログ

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橘諸兄の台頭と藤原広嗣の乱の勃発

今回は時間が取れたので連続での投稿です。反藤原のために立ち上がったと言われる藤原広嗣の乱にある裏側を調べていきます。ではどうぞ。

 

藤原氏長屋王の変で大きな謀反に繋がりそうだった所をどうにか納めることができ、その後藤原氏の娘が光明皇后として初めて皇族以外からの皇后を立てることに成功しましたが、当時の流行り病・天然痘によって4兄弟は737年に次々と倒れます。当然この4兄弟の死は長屋王の祟りとして恐れられることになりました。

 

これがきっかけに藤原氏の勢力は一時衰退します。かわって出てきたのが皇族出身の橘諸兄(たちばなもろえ)です。彼もまた藤原氏の娘を妻としていたり母親が藤原不比等の妻・橘三千代だったりと藤原氏とは繋がりもありましたが、藤原不比等の死後は皇族の一員として動いている事も多く反藤原氏の面もありそうです(権力争い関係なしに「間違いは間違い」と正していただけな印象も見方によってはあります)

 

この時、橘諸兄と共に政治のブレーンとしてついたのが唐へ留学していた吉備真備玄昉。この二人の排除を求めて藤原不比等の3男で式家の祖である藤原宇合の子・藤原広嗣(ひろつぐ)が乱をおこします。反藤原体制に反対して起こった乱だと一般的には言われています。

 

ですが実はこの乱、権力争いの結果という側面ではなく別の側面から見ることも可能です。

豈、武を偃(や)め、備(そなえ)を棄てて将士解体し、(中略)兵法に曰く、安しと雖(いえど)も戦を忘れば必ず危うし、彼の来たらざるを恃むことなかれ、我が備へて待つあるを恃むなり、と。

 

兵法にもあるように『安い(政治がしやすい?)からと言って戦を忘れたら危ない、敵が来ないことに希望を見出すのではなく自分で備えて有事に備えよ』という旨が書かれた『松浦廟宮先祖次第并本縁起』。これが広嗣の上奏文だと言われています。

 

この史料は同時代の史料として怪しいとされていますが、上奏文には「信頼すべき部分もある」とも言われているようです。古代史が専門の仁藤敦史氏の著作『女帝の世紀:皇位継承と政争』では広嗣が吉備真備と玄昉の失政を追求したことの真意がどのようなものだったのかを以下のように言っています。

 

広嗣は軍団兵士制を廃止するなど 、対外的防衛を怠った聖武を批判していることになる。当時、広嗣は太宰の少弐の地位にあったが、帥は欠員で、大弐は在京しており、現地での最高責任者でもあった。対外的防衛と外交の最前線である大宰府の責任者として、聖武の弱腰を批判したことは十分に想定されるのではなかろうか。

 

藤原広嗣が左遷された原因が親族批判のためとされていて、その批判というのが対外的防衛の強化にあったのではなかったのか?当時藤原氏唯一の議政官・豊成への非難があったのではなかったのか?そんなことが書かれています。

 

つまりは対外関係と軍備問題における諸兄政権との政策の相違が原因になった、ということです。長屋王の変の前にも藤原四氏と橘諸兄との政策の方向性が異なっていたことが指摘されています。結局、740年に起こった藤原広嗣の乱は九州での大規模な反乱に繋がりました。

 

排除しようとしたのが吉備真備と玄昉の二人だったのは聖武天皇橘諸兄を表立って避難できないことは勿論、遣唐使帰りなことも無関係とは思えません。乙巳の変での蘇我氏の立場にも似ているような気がしますし、今現在の安保関連の動き(今回は反対の動きですが)や親○○派と議員さんが呼ばれることが多い今の状況にも非常によく似ていると思います。まさに「歴史は繰り返す」に見えますね。

 

更にこの時期の政治の動きの裏で奈良時代では欠かせない重要な法案が決められていきます。土地政策の転換です。次回は土地政策の転換について書いていこうと思います。

 

女帝の世紀―皇位継承と政争 (角川選書)

女帝の世紀―皇位継承と政争 (角川選書)