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日本史が好きになる?歴史ブログ

このブログを見て、少しでも歴史を好きになるお手伝いができれば良いと思います。

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本格的な仏教政治

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聖徳太子の時代から仏教は政治と深く結びついてきましたが、主体はあくまで皇族や豪族によるもの。彼らの支持や保護があって行われていた面があります。

 

が、奈良時代にはその頃とは少し様子の違った仏教政治を行っているので、今回はその仏教政治に焦点を当てていきたいと思います。では始まりです。

 

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奈良時代の相次ぐ飢饉、疫病、反乱などを通して、僧侶はさらに力をつけて行きます。国分寺国分尼寺の建立国分寺建立の詔(pdfファイル・武蔵国分寺跡資料館解説シートより))奈良の大仏の造立なんかは象徴的な出来事です。これらの詔を出したのは聖武天皇。この749年に即位した聖武天皇の娘、孝謙天皇奈良の大仏の開眼供養の儀式を行いました。

 

聖武天皇には一人だけ光明皇后との間に基皇子がいましたが夭折しています。そこで白羽の矢が立ったのが安倍内親王・・・後の孝謙天皇です。他にも男児安積親王(母親:県犬養氏がいましたが、光明皇后藤原氏の強い意向で安倍内親王が女性で初めて立太子されることとなります。元々、寡婦か独身の女性のみが皇位についてきたこともあって、孝謙天皇は結婚が許されない状況にありました。また、これまでの女帝は次の天皇が即位するまでの間という条件付きで就いてきたので、周りからあまり良い目で見られない即位だったことが伺えます。

 

そんな孝謙天皇の時代ですが、一時期身を潜めていた藤原四兄弟の長男・武智麻呂の子の仲麻呂光明皇太后と結んで政界で勢力を伸ばしています。それまで力を持っていた橘諸兄の子の奈良麻呂は、そんな状況に危機感を覚えて仲麻呂を倒すことに乗り出しますが、逆に滅ぼされるという事態に陥りました(橘奈良麻呂の変)。

 

そんな中、孝謙天皇は母親・光明皇太后が病気のために758年に淳仁天皇に譲位し、太上天皇(=上皇)となります。淳仁天皇の後ろ盾としてついたのもやはり藤原仲麻呂でした。この時に仲麻呂恵美押勝(えみのおしかつ)の名を賜り、ますます経済的特権や権力を独占。しまいには太政大臣にまで昇りつめます。

 

 

 

ですが、そう上手く行くはずもありません。760年には光明皇太后が死去。恵美押勝は後ろ盾であった光明皇太后がいなくなることで孤立を深めました。

 

一方の孝謙上皇は761年に病に倒れ、その看病に僧の道鏡が当たります。これがきっかけとなり孝謙上皇道鏡を寵愛する事になります。それを良く思わなかったのが淳仁天皇恵美押勝。両者の間に亀裂が走ります。危機感を募らせて恵美押勝が764年に挙兵(恵美押勝の乱)しますが、孝謙上皇に先制され恵美押勝は滅ぼされます。淳仁天皇は廃されて淡路へ流されることになり、孝謙上皇重祚して称徳天皇となりました。

 

 

孝謙天皇の後を継いだ淳仁天皇ですが、孝謙上皇淳仁天皇を臣のように扱ったように感じていたために関係が悪化したとも一説には言われています。元々それを避けるために聖武天皇孝謙天皇の跡継ぎ・道祖王と決めていましたが、孝謙天皇はそれを廃して光明皇后藤原氏の強い意向で大炊王(後の淳仁天皇)を立太子させたという経緯があったようです。

 

 

 

ここから道鏡が大出世していきます。称徳天皇の支持を得て太政大臣禅師、そして法王となって政治の中心に座ることになりました。この印象から道鏡称徳天皇に取り入って出世した悪僧と想像できますが、実は藤原氏をどうにか抑えようという策だったのでは・・・とも最近では言われています。何しろ、奈良時代だけでなく平安時代藤原氏の天下が続くので文献すらも藤原氏寄りに書かれたでしょうから。

 

ところが、769年に称徳天皇道鏡皇位を譲ろうとする事件が起こります。さすがに僧が皇位に就くのはまずいとした和気清麻呂という貴族がそれを阻止します。実はこの裏にも藤原百川らがいたという事で、陰謀の裏に藤原氏ありなイメージがついてしまいますね。結局その翌年には称徳天皇崩御し、後ろ盾を失った道鏡は政界から追放されます。

 

そして、これらの出来事の裏では墾田永年私財法で貴族だけでなく寺院もしっかりと力をつけていく事態となっており、相対的に朝廷の力が落ちていくことになります。また、道鏡が政界にいた間に西大寺などの造寺・造仏が頻繁に行われていたことから、政界の中心部から僧侶が追放されても仏教の影響力は確実に平城京に残る事となりました。この弊害を断つために行ったのが遷都です。

 

次回は、この遷都について見ていこうと思います。