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日本史が好きになる?歴史ブログ

このブログを見て、少しでも歴史を好きになるお手伝いができれば良いと思います。

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薬子の変(平城太上天皇の変)の背景を分かり易く調べてみる

 

桓武天皇の功績なんかを書いてきましたが、今回はその息子たちのゴタゴタがテーマです。そのゴタゴタとは、最近では律令下における天皇上皇の権力の在り方が原因となったと言われる「平城太上天皇の変」のことです。

 

2003年以前は、どの教科書でも「薬子の変」の呼び名が一般的でした。

 

何しろ、これまでの歴史にはなかった女性の名前が付く変です。中心的人物が薬子だろうという事が予測できます。今回の事件は今まであまり焦点を当ててこなかった後宮にも「薬子の変」の原因となった要因が潜んでいそうだと見当が付くので、後宮の人間関係等も含めて考察していきたいと思います(長くなったので今回は二回に分けますが)

 

 薬子の変の方が呼びやすいのに加え、後宮での女官同士の争いも背景にあったことを示すためにも今回は「薬子の変」で統一しています。

 

さて、今回のテーマ「薬子の変」では名前の変遷を見る限りでも、天皇上皇の権力争いだけが原因とは単純に言い切ることが出来ないのが分かります。そして、この薬子の変を調べていくと、これまでの貴族や皇族との争いが背景に見え隠れしているのが分かってきます。

 

では、どんな争いがあったのでしょうか?

 

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薬子の変が810年に起きたものなので、大体身近な関係者が生きているのは70~80年前あたりからでしょうか。正直、広嗣の乱あたりは年代的に古すぎな気もしますが、一応70年前の出来事で生きている人もいそうなので載せておきます。

 

パッと思いつく限りでは・・・

 

      (=橘諸兄政権との確執か?)

      (=光明皇后藤原仲麻呂の台頭に危機感を抱いた)

      (=光明皇后の後ろ盾をなくす+孝謙太上天皇道鏡の台頭が原因)

      (=長岡京への遷都に対する反発が原因?)

 

 

有名なのはこの辺りでしょう。井上内親王による光仁天皇への呪詛事件もあります。

 

恵美押勝の乱では、藤原仲麻呂(=恵美押勝)の一族の殆どが処罰の対象となっていてこの時期の南家の勢力桓武天皇が即位する前まで一時期衰退しています。

 

11/5文章訂正。

薬子の変があった頃には確かに南家が衰退していて直接的に南家は関わってはいません。が、恵美押勝の乱の後に再度南家が盛り返していて薬子の変に至るまでの間に式家と南家との争いがありました。その延長上に北家と式家の争いが出て来るので、南家が薬子の変に関わっていなかったと言い切るのも少し違う気がしたので「南家が薬子の変に関わっていない」という一文を消させていただきました。

 

 

ところが、橘奈良麻呂藤原種継の関係者はそのまま朝廷の中枢部に留まることになります。藤原種継は被害者ですし、橘奈良麻呂の乱ではその後の朝敵ともなる藤原仲麻呂の台頭を阻もうとしたのだから当然です。

 

 

 

さて、ここで『薬子の変』がどんなものだったのか整理してみます。

 

薬子の変』とは、桓武天皇のその妻・藤原式家出身の乙牟漏(おとむろ)の息子である平城太上天皇と当時既に譲位され天皇に就いていた嵯峨天皇との間での平城京への遷都を巡る対立だったと言われています。この時、所謂「二所朝廷」と言われる状態に陥り、政治的な混乱が大きくなりました。

 

何故平城京への遷都を目指したか?ですが、平城太上天皇が即位以前から寵愛していた藤原薬子やその身内が自身の出身である藤原式家と深い繋がりがある平城京に戻りたかったのでは?とされています。また、病気のために一旦は譲位した天皇の地位ですが、回復したこともあって藤原薬子と仲成が再度天皇の地位に就く「重祚」を薦めていたという話もあります。

 

何しろ、即位以前の嵯峨天皇に仕えていたのが藤原北家の冬嗣春宮(とうぐう)大夫と言う皇太子の家政を任務とする職務へ平城天皇が即位した806年に就いており、平城天皇が譲位した809年には既に嵯峨天皇の信頼も篤いものになっていました。式家にしてみると時期天皇になった時に失速するのは目に見えています

 

平城天皇嵯峨天皇との争いではありますが、藤原氏同士での主導権争いも同時に伺えます。

 

 

 

 

・・・と、ここまで見ても全く女官の話が見当たりませんね。いよいよ後宮の方にも注目していきたいと思います。

 

 

まず、薬子。この女性は平城天皇の妃として直接入内したわけではありません。薬子自身も既に夫のいる身でした。その夫との間に産まれた長女が後の平城天皇・安殿親王の妻として仕えたそうです。この時に薬子後宮東宮宣旨(宣旨=宮中に奉仕する女官)として出仕しています。

 


この東宮宣旨時代に安殿親王と不倫関係になったそうです。娘の入内くらいの時期には薬子が30代半ば、安殿親王が20歳前後だったのではと考えられています。そして、この時期、薬子安殿親王だけでなく藤原北家葛野麻呂とも通じていたとされています。

 

 

何故こんなことをするのでしょうか?単なる気まぐれとは思えませんね。次回は藤原薬子の辿った人生や周囲の状況なんかも突っ込んで調べていきたいと思います。

 

rekishi-note.hatenablog.com

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