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日本史が好きになる?歴史ブログ

このブログを見て、少しでも歴史を好きになるお手伝いができれば良いと思います。

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薬子の変(東宮での人間関係)

薬子の変をもう少し深く突っ込んだ話をしていきたいと思います。ちなみに東宮とは皇太子の住む宮殿のことを指しています。

では第二弾始まりです。

 

これまで散々書いてきた藤原薬子ですが、暗殺された藤原種継の娘でもあります。兄に藤原仲成式家出身の女性です。

 

桓武天皇が渡来系氏族の母親を持ち、様々な反応がある中での即位だったにも関わらず強力に後押ししたのが藤原百川。彼は式家出身でその祖・宇合の八男です。この関係で藤原式家桓武天皇下では優遇される事が増えてきます。

 

そんな百川が死去した後は藤原式家の年長者でもある種継が重用されるように。紆余曲折を経てそれまでの奈良の都から引っ越そう!となったのが長岡京への遷都です。この責任者となったのが種継。そして反対する者達の手で?射られ、翌日薨去しました。

 

これ以降、長岡京にいた桓武天皇の周りでは様々な不可思議なことが起こります。

 

 

 786年  藤原百川の妻で、藤原良継の娘である諸姉が死去(式家

 788年  諸姉の娘で桓武天皇太后となる旅子が死去(式家

 789年  桓武天皇の母・高野新笠が死去

 790年  桓武天皇の皇后となる乙牟漏(おとむろ)が死去(式家

       坂上又子死去

 794年  安殿親王の妻・藤原帯子死去(式家

 

 

これらの東宮での女官達の死は、不自然なほど多く感じます。実際に当時は早良親王の祟りだとされ、長岡京への遷都を中断する程の影響を与えました。

 

それにしても随分偏っていると思いませんか?

 

桓武天皇の母親は既に高齢な事もあり(70歳近いです)当時の事情を考えると理解できるのですが、諸姉が亡くなったのは大体40代くらいで他の女性たちはまだ30代。藤原帯子に至っては恐らくもっと若いです。そして、この短期間に亡くなったのは式家の女性が目立っています。785年に種継が暗殺された後から種継と縁の深い式家の人間が次々と亡くなっているのです。

 

では、この時期に疫病の流行があったのでしょうか?疫病があれば続けて亡くなる理由にもなるでしょうから少し見てみることにします。

 

史料を見てみると、785年に周防国で飢疫があったと書かれています。周防は山口県の一部。あまり東宮には関係なさそうに見えますね。790年には京畿内で痘瘡の記述が見られることから天然痘が流行ったのが分かりますが、時期としては少し遅い。このことから短期間に式家の女官達が次々と亡くなる理由になり得ないことが分かります。

http://kuir.jm.kansai-u.ac.jp/dspace/bitstream/10112/3051/1/26-touka.pdfより)

 

では他殺でしょうか?

もしそうなら、どんな人だと犯行が可能だったのか、メリット得られるのか…ここら辺を考えてみると、やはり南家北家があやしいという事になります(京家は一線から引いて文化的な方面で活躍していきます)

 

 

 

桓武天皇、実は非常に多くの妃がいました。その人数なんと20人以上!!この中には当然、式家の者も北家の者も南家の者もおりました。そんな大所帯を纏めていたといわれるのが尚蔵(くらのかみ)となった橘真都賀(たちばなのまつが)786年にこの地位に就いています。

 

実はこの橘真都賀橘諸兄の姪っ子であり奈良麻呂の変を起こした橘奈良麻呂と従兄の関係に当たります。橘諸兄の最盛期を直接目で見て、尚且つ奈良麻呂の変で実家が衰退していくのを生で感じていた人です。そして、この真都賀藤原是公を夫としています。是公恵美押勝を輩出した南家の出身です。

 

是公は774年に参議になって以降順調に出世。特に779年山部親王時代の桓武天皇春宮大夫(皇太子の世話係のようなもの)となった後・・・更にその桓武天皇が781年に即位してからは、それまでの左右大臣や大納言が亡くなったこともあって(皆さん、50代半ば~88歳なので自然死も十分あり得る年齢です)一気に是公が昇進していきました。是公らの息子の一人、雄友もかなりの勢いで785年以降出世していってます。

 

彼女なら十分に動機も結果も満たしているように見えますし、何しろ時期もピッタリと一致します。それに、これまでの経歴を考えると邪魔者を排除してでものし上がろうという思考に陥っても不思議ではありませんので、橘真都賀は容疑者?として十分にあり得る人物だと思われます。

 

 

 

さて、そんな状況を目の当たりにした薬子はどのような心境だったことでしょうか。確定したわけではないですが、南家の者が自分達式家の者を葬りつつ上手く朝政の中心部に居座っているように見える状況です。娘を入内させるだけでなく色々と画策しようとなっても、これまた不思議ではありません。こんな背景が安殿親王を取り込み、北家の者を牽制する動機となったのではないでしょうか?手段が手段なので桓武天皇から嫌われて東宮を追い出されることになりましたが。

 

今まで出てこなかった薬子の夫ですが、彼の名は藤原縄主。彼は800年に安殿親王桓武天皇の息子、後の平城天皇春宮大夫となっています。安殿親王が26歳頃のことです。安殿親王が20歳前後に不倫関係になったということなので、その後の任となったことが伺えます(きついですね)。こういうのが積み重なって桓武天皇と息子の安殿親王との仲が悪化していったのでしょう。

 

ところが、邪魔される程に盛り上がるのが人情と言うもの。806年、桓武天皇崩御安殿親王平城天皇として即位すると、すぐさま薬子を東宮に戻して縄主を九州へ太宰帥として送り込みます。

 

そしてその翌年807年。それまで南家に良いようにされてきたこともあって、式家の中心的な存在となっていた仲成・薬子兄妹の謀略(とされる)により伊予親王とその母親で南家出身の藤原吉子が処罰され、自殺。大納言となっていた藤原雄友も流罪に処され南家の勢力は一気に衰退します。

 

平城天皇は元々病弱だったこともあり、これを機に塞ぎがちとなります。そんな平城天皇を支えたことで平城天皇と薬子の結びつきは益々強くなったそうです。結局病気を理由に弟の嵯峨天皇に譲位。前回話したように嵯峨天皇の側には北家がいたので、式家としては面白くありません。こんな経緯から薬子の変へとつながっていったそうです。