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日本史が好きになる?歴史ブログ

このブログを見て、少しでも歴史を好きになるお手伝いができれば良いと思います。

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薬子の変が与えた影響

平安時代

こんにちは。書置きしていたブログ記事が全部消えていてショックを隠し切れませんが、前回までの薬子の変が終わった後の影響について気持ちを切り替えて書くことにします。

 

と言っても、どういう結果で薬子の変が終結したのか書いてなかったのでまずはそこから。では始まりです。

 

 

薬子の変は、嵯峨天皇の迅速な動きにより嵯峨天皇の勝利で決着ししました。平城太上天皇は自ら出家藤原薬子は服毒自殺をはかり、薬子の兄・藤原仲成は射殺されます。この事件で式家は一気に衰退します。

 

そこで出てきたのが北家。今までは南家・式家に比べると目立っていませんでしたが、ここから北家優位の時代に突入します。この辺の話は摂関政治にも絡んできますので改めて記事を書く予定です。

 

さて、貴族間の力関係もさることながら政治体制にも大きな影響を与えることになりました。そんな政治体制の話をメインに今日はしていきましょう。

 

 

まずは天皇の命令を上皇に漏らさずに、且つ、速やかに太政官に伝えるための蔵人頭(くろうどのとう)という役職が出来ました。蔵人頭は2人任命。この蔵人頭が属するのは蔵人所という役所です。とにかく、これを機に蔵人所に属する蔵人が天皇の側近として重要な任務を果すようになります。

 

つまりは秘書のような役割という事になりますが、この役割は元々内侍司の長官である尚侍(ないしのかみ、又はしょうじ)が請け負っていました。内侍司は女官のみで構成された部署になります。

 

薬子の変以前は、この尚侍には譲位したはずの太上天皇の置き土産として藤原薬子が就いていました。上皇天皇との関係を考えると尚侍を無下にすることも出来ず、だからと言って勅を出しても上皇に筒抜け状態。上皇天皇が対立すると、通常業務にも支障をきたすようになります。また、上皇が尚侍を通じて直接太政官に命を出す事も可能です。最近、平城太上天皇の変と呼ばれるようになったのはこの辺りが理由です。

 

この蔵人頭には、巨勢野足(こせののたり)嵯峨天皇の春宮太夫だった藤原冬嗣が就いています。基本的には四位(地位を示しています)の者と近衛六衛府の1つ、近衛府の官人がなることになっています。

 

 

 

 

さて、もう一つ忘れてはならない職があります。これが検非違使(けびいし)です。816年にできた平安京内の警察に当たる職になりますが、既に似たような職種を思い出しませんか?そう、六衛府です。

 

大宝律令で制定されていたのは元々五衛府でしたが、様々な継承問題などを通じて権力者の都合の良いように改造してきた経緯があります。途中八衛府になったりしてますが、嵯峨天皇の時には六衛府に落ち着きました。

 

平安時代の前、奈良時代の後期には兵の質の低下が問題になっています。この質の低下は元々農民達のに対して酷使しすぎたことが原因の一つです。ところが、この六衛府の中にも農民出身の者達が一部にいたという事実があります。

 

そして桓武天皇の時代には忘れてはならないのが、軍団制の廃止と健児制の開始です。元々五畿七道それぞれの国の軍団に属する優秀な人物を集めた五衛府でしたが、設置した当初とは状況がだいぶ変わってきており、そのままの制度では立ち行かなくなってきたことが伺えます。

 

そんなわけで出来た検非違使ですが、後に裁判も行うなど京の治安や統治に欠かせない職となっていきます。

 

 

 

こうなると六衛府がお役御免になりそうなものですが、これまでとは違う任務にも関わるようになりました。その任務と言うのが、この蔵人所六衛府(特に近衛府)の共通点・雅楽です。

 

検非違使と呼ばれる京内の警備専門職ができ藤原氏を中心とした貴族政治が行わるのに伴い、六衛府で高い地位(大将や中将など)に就くのが栄誉と見做されるようになりました。天皇や貴族達も音楽を嗜む様になったこともあって馬芸や楽舞などにも関わるようになってきます。

 

六衛府の中でも特に右近衛府、そして後に蔵人所の下に置かれることになる大歌所。この二つが雅楽と深い関わりを持っています。

 

嵯峨天皇の821年の内裏式において雅楽は宮中行事に欠かせないものとして扱うことになったようですし、嵯峨天皇が新しい職務として六衛府に図らったのかな?とも考えられますね。

 

ちなみに尚侍についてはかなり地位が低下する事になったようです。