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日本史が好きになる?歴史ブログ

このブログを見て、少しでも歴史を好きになるお手伝いができれば良いと思います。

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摂関政治の始まり

平安時代

薬子の変が終わって以降、それまで栄えていた式家が衰退し藤原家では北家が優位に立ったというお話を以前したと思います。

 

今回はそんな藤原北家が中心となった貴族政治について調べていきますね。では始まりです。

 

 第51代の嵯峨天皇の勝利で終わった薬子の変ですが、蔵人所の開設と検非違使の設置という、それまでの法令には規定されていなかった官職を置きました。

 

元々法に定められていなかった官職の事を令外官(りょうげのかん)と言います。この令外官は、大宝律令制定時と比べると平安時代には確実に増えています。これは政治の現実と法令とがいよいよ噛み合わなくなってきたということを意味します。そこで新たに律令の規定を補足・修正するための(きゃく)と、施行の際の細かいルールを決めるための(しき)を分類・編集することで、法令が現実に沿うよう調整していきました。

 

嵯峨天皇の元で編纂されたのは弘仁格式という格式です。この弘仁格式を編纂するにあたった中心的人物は、嵯峨天皇が皇太子だった頃からの側近・藤原冬嗣です。冬嗣嵯峨天皇から篤い信頼を得ており、皇室との姻戚関係を結んでいきました。826年、52歳で冬嗣が亡くなると、息子の良房(長男・長良は少し出遅れましたが、わだかまりもなく良い関係を築いていたようです)北家の中での出世頭となります。また、冬嗣の長男・長良の息子基経を養子として迎え入れ、その基経良房の後を継ぐことになりました。

 

 

 

今度は皇室の話に移りましょう。嵯峨天皇の父親は桓武天皇という非常に力を持っていた天皇で当初その跡を継いだのは兄である平城天皇です。その平城天皇の即位に伴い、賀美能親王(かみののみこ、後の嵯峨天皇が皇太弟となりました。既に平城天皇には親王が二人いたそうですが、にも関わらず皇太弟となったのには桓武天皇の意向が強く働いていたためだと言われています。

 

その後平城天皇が体調不良で譲位し、嵯峨天皇が即位。続いて起きた平城太上天皇重祚を狙った薬子の変の際には、上皇の息子で当時皇太子だった高岳親王廃太子としています。そんな経緯から自身の息子を皇太子として立てることを嵯峨天皇はしませんでした。強引に自身の異母弟・大伴親王(後の淳和天皇を皇太弟としての地位につかせる事にしたのです。

 

この大伴親王を皇太弟としたことが、後の742年に伴健岑(ともこわみね)・橘逸勢(たちばなはやなり)を失脚させる承和の変の遠因となります。また、この時に大伴氏が皇太弟と同名なのは恐れ多いとして伴と名前を変更しています。

 

823年、嵯峨天皇淳和天皇に譲位。上皇が二人になると財政負担が大きい平城天皇はこの時点で健在、824年崩御ことを理由に冬嗣が反対していましたが、受け入れることはありませんでした。

 

淳和天皇が10年間天皇として在位した後は嵯峨天皇の第2皇子・仁明(にんみょう)天皇に譲位します。この時に皇太子として立てられたのが淳和天皇の第2皇子・恒貞親王です。この時、淳和上皇は後に火種になることを嫌ったのでしょう。恒貞親王立太子に反対しますが、依然として絶大な権力もあった嵯峨上皇にその意見は通りませんでした。嵯峨上皇には自身の子と淳和天皇の子に皇位を交互につかせようという意図があったようです。

 

結局、840年には淳和上皇が、842年には嵯峨上皇崩御したことによりその均衡が崩れます。仁明天皇の女御には冬嗣の娘・順子がおり、その間には道康親王(みちやすしんのう、後の文徳天皇が産まれています。良房としては北家関係者でもある道康親王を皇太子として立てたいという野望を持っていました。そこで嵯峨上皇崩御直後に当時皇太子だった恒貞親王を廃する承和の変を企てたのです。

 

この承和の変が起こったことにより、伴・橘という有力貴族の勢力をも退けることができ、藤原氏の中でも北家の地位を確立する事に成功しました。

 

850年に仁明天皇が譲位し文徳天皇が即位しますが、その8年後に文徳天皇崩御。幼少の清和天皇が即位する事になります。文徳天皇には良房の娘が嫁いで清和天皇を産んだこと(つまり良房が清和天皇の祖父)や既に太政大臣の地位に就いていたこともあって、外祖父として良房が初めて臣下から摂政の任に就きました。とは言っても、858年は事実上の摂政であり、正式なものではありません。正式に摂政となったのは866年応天門の変で伴氏・紀氏を没落させた後の話です。

 

※摂政とは、天皇が幼少だったり病弱だったりした時に仕事を代行する役割です。

 

摂関政治のうちの摂政の方は分かりましたが、関・・・つまり関白はいつ頃出てきたのでしょうか??

 

実はその関白良房の後を継いだ基経が初めてその地位に就いています。関白とは天皇の代わりに政治を行う役目を持つ令外官であり、成人後の天皇の政治の補佐まで行う非常に権力の強い官職となりました。

 

これ以降というもの、摂関政治(摂政・関白を置かない事も当然ありましたよ)が始まっていきます。陰謀を駆使して藤原氏の天下となる一方で、他氏を排除した後は藤原氏の内部で抗争が始まります。こうして政治が不在となり荒れていってしまったのです。