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日本史が好きになる?歴史ブログ

このブログを見て、少しでも歴史を好きになるお手伝いができれば良いと思います。

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平氏の始まり

平安時代

前回書いた摂関政治についてもっと詳しく書いていきたいところでしたが、全体の流れを見ないと分かりにくいので只今年表を作成中です。少し時間がかかりそうなので、これまでの話とも関連した別のお話をしていきましょう。

 

政治が置いてきぼりにされていたこの時代、地方でもまた勢力を拡大しようとする地方豪族や有力農民が現れ(この流れも後々改めて記事にする予定です)、その勢力の維持拡大のために武装する者達までもが出て来るようになりました。

 

地方は荒れに荒れ、盗賊が出没し内乱が頻発する事態に陥ります。当然ながら政府からその鎮圧のために警察・軍事に関する官職の令外官押領使(おうりょうし)追捕使(ついぶし)が送り込まれます。この押領使・追捕使に任命されたのは主に中・下級貴族ですが、そのまま地方に残って有力な武士となる者も出始めました(違う経過をたどって武士となる者達も当然います)

 

この武士たちが互いに闘争を繰り返したり国司に反抗したりしていくうちに、大きな武士団へと成長していきます。特に東国は良質な馬の産地だとされていて機動力の高い武士団が成長していったそうです。

 

東国の馬と言ってすぐに思い浮かぶのが戦国時代の武田騎馬隊です。その存在には懐疑的な見方をする説もありますが、この騎馬隊の存在が広く知られているのは甲斐の国が名馬の産地だったという事が大きいでしょう。日本書紀の雄略紀にも「甲斐の黒駒」という駿馬が登場したり、壬申の乱では馬に乗った「甲斐の勇者」が大友皇子側の武将を射ったという描写があるなど甲斐の国にまつわる馬の話は多数あります。

 

そんな武士団の一つとなるのが平氏です。では、今回の本題平氏の始まりについて見ていく事にしましょう。

 

 

 

第50代・桓武天皇には多くの妻子がおりました。税収の低下も相まって多くの妻子を養うと財政が逼迫する事態となります。そこで行ったのが臣籍降下。そんな臣籍降下した皇臣が平氏の姓を賜ったのが始まりです。

 

桓武天皇と縁の深い平氏は「桓武平氏」と呼ばれています。また桓武天皇の孫にあたる仁明天皇に近い皇臣も臣籍降下を行い平の姓を賜りましたが、仁明天皇をルーツとする元皇臣は「仁明平氏」と呼ばれます。同様に、仁明天皇の息子達文徳天皇光孝天皇をルーツとする平氏はそれぞれ「文徳平氏」「光孝平氏」と呼ばれています。

 

 

中でも最も栄えたのは桓武平氏です。桓武天皇の孫(又はひ孫)にあたる高持王臣籍降下をした際に平の姓を賜与され、898年上総(かずさ、現千葉県中部)の『介』に任じられて実際に赴きました。

 

当時は実際に任地に赴かずに遥任(名前だけ貸して国司としての収入のみ受け取る)することも多かったと言いますが、中央にいても出世は高々知れていると判断したのでしょう。平高持は上総へ行き任期が過ぎた後も政界の中心部には戻らずに在地勢力との関係を深め、常陸国(ひたちのくに、現茨城県下総国(しもうさのくに、現千葉、茨城、埼玉、東京の一部)上総国の未墾地を次々と開拓していきます。

 

※887年に藤原基経阿衡の紛議(基経と宇多天皇の間での諍いです)が起こった後の出来事なので、徐々に藤原北家の勢力が中央政界を侵食していく最中の決断と言えます。

 

 

そんな平高持ですが 、何人かの子を授かりました。そのうち藤原冬嗣の三男?(諸説あり)良方の娘との間には、良望(よしもち、別名・国香)、良兼、良将、そして良繇(よしかけ、詳細は分かってません)を儲けたそうです。

 

その後の平氏の内部抗争が元で、良将の息子でもある平将門の乱が起こり、その鎮圧で功を治めた国香の息子・平貞盛の子孫が繁栄していきます。貞盛の子孫にはもちろん平氏の最盛期に活躍した平清盛らも含まれています。

 

なお、平清盛の時代には東国ではなく西国に拠点を置いていて瀬戸内の水軍を主に扱うようになりましたが、桓武平氏が東国に根を下ろして間もない平将門の乱では東国の特徴を生かした武士たちが活躍して乱を治めたそうです。平将門自身も馬と縁が深く、家紋に馬紋が使われています。

 

 

次回は平将門の乱が起きた原因を探っていこうと思います。