日本史が好きになる?歴史ブログ

このブログを見て、少しでも歴史を好きになるお手伝いができれば良いと思います。

スポンサードリンク

菅原道真について調べてみる

f:id:miumaga:20170425202221j:plain

前回は菅原道真平将門の関係については書きましたが、肝心の菅原道真についてはまだでしたので、今回は早速書かせていただきます。菅原道真と言えば、やはりインテリのイメージです。政治家の顔と同時に文学者、学者としての顔もありますね。

 

今回はそんな菅原道真について調べていきますが、菅原道真についてお話しする前に彼が出世した理由も見ていきます。では始まりです。

 

スポンサードリンク

 

まず、菅原道真の話をする前に宇多天皇藤原氏の関係を見ていかなけらばなりません。

 

宇多天皇光孝天皇の第七皇子です。

 

光孝天皇は、先代天皇陽成天皇とその母・藤原高子光孝天皇の時代に最も力を持っていた藤原基経の同母妹)藤原基経との兄妹間での確執や権力争いの末、失脚させられた繋ぎのような形での即位でした。

 

即位の2年後には基経や先代の陽成天皇に配慮して斎宮や斎院になる皇女以外すべての皇子と皇女に源氏姓を賜っています。光孝天皇も当初は自らの子を皇位に就かせることは考えていなかったのでしょう。

 

ところが、病に倒れた光孝天皇は、高子の産んだ貞保親王(11歳)でもなく基経の娘が産んだ貞辰(さだとき)親王(7歳)でもなく、自身の子を皇位に就けたいと思うようになりました。そこで相談したのが基経の義理の妹で尚侍の藤原淑子(しゅくし) です。

 

彼女は光孝天皇の第7子・源定省(さだみ)の養母でもあり、積極的に基経の説得に当たったそうです。これが功を奏し、日本史上唯一皇族身分を離れてから皇位に就く事になりました。 このような経緯から宇多天皇は誕生します。

 

宇多天皇は即位の際に藤原基経関白の地位を授けようとしていました。この勅書を起草したのが橘広相(ひろみ)です。実はこの人、藤原氏に近い学者達と対立関係にありました(今で言う学閥の様なものを作って対立していたようで、菅原道真橘広相側にいました)。更に、橘広相には義子という娘がいて宇多天皇の女御として仕えていたため、今後外戚となる可能性がありました。

 

そこで、藤原基経は『阿衡の紛議』と呼ばれる事件を起こします。その起草した詔の中にある「宜しく阿衡の任をもって卿の任とせよ」との一文の「阿衡」という地位は形ばかりのものだ、と難癖をつけ出仕を拒否したのです。

 

この時に阿衡について言及したのは藤原佐世(すけよ)で、後々宇多天皇がこの藤原佐世陸奥守にするという報復人事を行います。また、阿衡云々が原因ではなく、光孝天皇の時のような政務の全面委任について書かれていなかったことが出仕を拒否した理由ではないか?という人もいるそう。

 

この『阿衡の紛議』を仲介したのが讃岐守だった菅原道真(讃岐守になったのはあまりに優秀すぎて煙たかったからなんて説も)。讃岐は干ばつなどによって行政的に難しい土地でしたが、その悲惨な生活を詩に残すなど行政官としては資質に疑問を持たれることもありました。けれども『阿衡の紛議』では確実に道真の評価が高まっています。

 

 

 

 

 

ここで少しだけ菅原道真について書いていきましょう。

 

菅原道真は代々の学者家系。文章博士漢詩文や歴史を大学寮で教える教官のこと)というような道で出世してきました。参議に進出したのは父・是善の代と言われています。

 

道真は官吏任官試験である方略試に26歳で突破するなど非常に優秀だったことが分かっています。方略試は230年の間に65人しか合格しておらず、この若さで合格するのは稀な事だったそうです。 この方略試を受けるには学校に行く事が必要があります。当時一番有力だった学校が「山陰亭(菅家廊下)」。菅原氏の私塾であり、菅原家一族やそこを卒業した高級官僚が多くいたこともあって、菅原道真は大きな派閥の長という位置にありました。

 

宇多天皇は唐の翰林学士(かんりんがくし、皇帝が私的に置いた直属のブレーン)と重ねて文章博士を見ていたこと宇多天皇藤原氏との外戚関係を持たなかったことや阿衡の紛議で煮え湯を飲まされたことが理由で)藤原氏を排除して政治の実権を握ろうとしたこともあって、自ら臣下を育成・組織しようとしたのです。そんな裏事情もあって、891年に藤原基経が亡くなると蔵人頭に任じられ、その後も順調に出世の道を辿ります。

 

同時に父の代からの参議で割と新参者だったことや菅原氏の始祖が葬送に関与した土師氏ということもあって異例の出世に対して周りからの妬みも増えていきました。

 

 

 

長くなったので二回に分けていきますね。