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菅原道真を調べてみる【その2】

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前回は菅原道真宇多天皇がどんな人物だったのか、道真は宇多天皇の下で異例の出世を果たしたことを書いていきました。

その妬み嫉みが道真にどう影響していったのかを見ていきましょう。では始まります。

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菅原道真は元々葬送に関する土師氏の子孫だったり父の代からの参議だった新参者と扱われていたのですから、周りからの嫌がらせや宇多天皇がいなくなった後は想像できることでしょう。

 

まず、894年。894年と言えば「894(白紙・はくし)に戻そう、遣唐使」ですね。これは道真の功績ですが、この遣唐使廃止にも裏があります。

 

まず、在位していた宇多天皇翰林学士を参考にするなど唐への造詣が深い天皇でもありましたから、周りの藤原氏道真を煙たく思う者たちが上手く誘導したのでしょう。それまで60年近く行っていなかった遣唐使再開を要請します。

 

もちろん、唐での状況を道真は把握していましたし、道真がいなくなることで藤原氏が再度実権を握ることに抵抗もあって遣唐使に行かないことを決意。ですが、そう簡単にはいきません。60年近く前に遣唐副使となった小野篁(おののたかむら)遣唐使を辞退したことで流罪となっています。そこで道真は唐の当時の情勢からハイリスクローリターンであることを強調し「遣唐使はやめた方が良い」と提案。宇多天皇からの信頼が篤かったこともあって、遣唐使自体が中止となりました。

 

そうこうしているうちに、宇多天皇は897年に突然、13歳の息子・淳仁親王醍醐天皇に譲位します。この理由は仏門に入るためだとか、藤原氏からの政治的自由を勝ち取るためだとか、前皇統に連なる皇族から文句が出る前に自らの子を皇位につけたかったからだとか色々な事を言われていますが、良く分かっていないのが実情です。

 

宇多天皇醍醐天皇の正妃に藤原北家嫡流とは関係のない為子内親王(早世してしまいます)を入内させ、道真・藤原時平の二体制で政治を行わせていきます。

 

ところが、こういった動きが完全に裏目に出る事に。藤原氏だけに任せないよう先手を打ち、宇多天皇の側近を醍醐天皇の周囲に置いていくことで、次第に醍醐天皇の中に宇多上皇と道真らの政治に対する不信感が募っていくことになります。

 

 

譲位後、宇多上皇道真の後ろ盾としても協力していましたが、同時に仏道にも熱中し、899年には出家して東寺での受戒後、同年仁和寺にて法皇となっていたことで以前ほどの協力が出来なくなっていました。鑑真和尚にも由来する天台宗は朝廷との関わりも深かったのですが、比べると空海弘法大師)が開祖の真言宗は朝廷との関係がどうしても希薄です。真言宗の発言力が高まる事で宇多法皇の朝廷での発言権は増したと言いますので、ひょっとすると信心以外にも発言権を高める目的もあって仏道に熱中していたのかもしれません。

 

 

そこで901年、醍醐天皇菅原道真やその息子達を左遷

 

もちろん理由なく右大臣を左遷できる訳はありません。左大臣藤原時平の讒言により菅原道真が娘婿の斉世(ときよ)親王を皇太弟に立てようという風説を流したのです。更に醍醐天皇藤原時平の妹・穏子(おんし・やすこ)を女御にし、事実上の正妃として扱うようになります。

 

これにより醍醐天皇藤原氏との連携を深めていき、醍醐天皇藤原時平派が政治的勝利を納めることとなりました。

 

これらの出来事は昌泰の変と呼ばれています。結局903年には道真が失意の下で亡くなりました。

 

 

ですが、更にまたどんでん返しがやってきます。それが菅原道真の怨霊騒ぎです。

 

讒言した張本人、藤原時平は30代で若くして病死。時平の息子も急死し、左遷騒ぎを聞きつけた宇多法皇の行く手を阻んだ者達も雷に打たれて死亡。醍醐天皇の皇太子達も次々に亡くなります。

 

こんな事が続き、「菅原道真の怨霊だ!」という噂が立ちました。何しろ亡くなったのは時平派の者達ばかりです。

 

そして、とうとう930年には醍醐天皇がいる清涼殿への落雷事件で多数の死傷者を出しています。それを目撃した醍醐天皇も約3か月後に崩御

 

931年まで宇多法皇は存命されていましたから、事実上政治の中枢部に宇多法皇が戻ることになります。元々道真と親交のあった時平の弟・忠平は兄の死後醍醐天皇が朝政を司っていた間も中枢部に残り出世を重ね、宇多法皇が戻られた後も公務を全うし朱雀天皇村上天皇のもとで政界の中心部にて朝廷に関わっていきます。なお、918年には平将門藤原忠平の下に仕えています。

 

雷に打たれて亡くなっている者達が多数いたことから、雷神と道真は結びつけられました。923年には従二位大宰権帥から右大臣に戻し正二位を贈りますが、それでは足りず後の清涼殿落雷事件に発展。

 

そこで火雷天神(からいてんじん)が地主神として信仰されていた京都の北野に北野天満宮を建立し、道真公の祟りを鎮めようとしたそうです。

 

その後、100年程は大災害のたびに怨霊の仕業だと言われることが多くなり天神信仰が全国に広がったと言われています。また、993年には正一位左大臣太政大臣に昇進させています。これは道真を好意的に見ていた忠平の子孫によるところです。

 

怨霊として恐れられていった道真ですが、時代がたつにつれ生前の類稀なる秀才ぶりから学問の神様と呼ばれるようになり、現在では忠臣としての評価がなされるようになっています。