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日本史が好きになる?歴史ブログ

このブログを見て、少しでも歴史を好きになるお手伝いができれば良いと思います。

利用枠の上限について スポンサードリンク

藤原道長はどのように『望月の歌』を詠むまでに至ったか?-其の弐-

平安時代

 前回の記事では、藤原道長に助け舟を出した詮子の状況について調べていきましたが、今回は道長が朝廷内での権力を実際に得ていく様子などを探っていきたいと思います。

 

<関連リンク>

 

 

道長が無事藤原氏氏長者藤原氏の中で一番偉い人)となり995年に内覧の宣旨を受けましたが、元々藤原氏氏長者とは縁遠い立ち位置にいた人物です。

 

内覧とは・・・天皇に奉る文書などを先に見ることが出来る権限を持つ

 

伊周の地位も高いままということで、まずは関白の地位に就くよりも太政官(現在の内閣のようなもの)を掌握する方が道長にとっての重要事項でした。

 

その後996年には藤原伊周らによる花山法皇(すでに出家したため法皇になっていた)暗殺?未遂事件(実際には長徳の変花山院闘乱事件とも呼ばれている)が起こります。この長徳の変により一気に道長勢力が優勢に。一条天皇と仲睦まじかった嫁定子はこの時ちょうど里帰り出産中で兄が捕まるのを目撃。ショックのあまり出家することに。

 

こうなると周りに有力なライバルがいなくなり関白の地位に就きそうなところですが、道長はあえてその地位につかなかったと考えられています。

 

 

どうして道長は関白の地位に就かなかったのか??

まず当時の状況として、外交や財政に関わる問題について太政官公卿による合議(=陣定・じんのさだめ)で決めていたという事実があり、この陣定では摂政関白も口を出せず、陣定のトップは一上(いちのかみ)が勤めます。一上太政大臣摂政関白を除く公卿の中の最高位にいた人物がその資格を有します。摂政関白はあくまで会議で上がってきた奏文を裁決する立場です。

 

道長の場合はライバルが自滅してくれたため、陣定一上として積極的に関わりつつ内覧として太政官から上がってきた文書をチェックして公卿を統括する方が関白の地位に就くよりも議定を意のままに出来たと考えられます。

 

 

ライバル・藤原伊周の朝政への復帰

997年には伊周が恩赦のために帰京詮子の病気回復を願うため)、すでに大臣枠は埋まっていたため准大臣(大臣に准ずる待遇で伊周が初例)として復権。

 

伊周の罪が許されたことで一条天皇は再度定子を宮中に迎え入れます。ところが出家後の再入内は貴族達からの顰蹙物で風当たりの強いものでした。

 

それを裏付けるかのように定子の定位置は見てはいけない「何か」が出そうな建物で後宮と言えないような場所。それでも人目を気にしつつ一条天皇定子の下へ通っていたそうです。999年には二人の間に一条天皇の第一皇子敦康親王が産まれます(11月の事)道長の長女彰子が入内したのはちょうどこの頃、12歳のことです。

 

既に道長は大きな権力を握っていましたから公卿の中にはそれを快く思っていなかった者も多くいたことでしょう。敦康親王が生まれたことで再度伊周を担ぎ上げようとする者達もいたようです。

 

このことに焦燥した道長彰子を皇后として冊立(1000年2月、敦康親王が誕生されて約2か月後)。既に定子がその地位にいたため史上初めて一帝二后となりましたが、その年の暮れ定子は難産の末に命を落とします。敦康親王が2歳のことでした。

 

 

道長の野望

敦康親王は、まだ子が無かった彰子の下で養育されます。産まれた子は本来母の実家で育てるのが通例でしたので、彰子の下に第一皇子を預け道長の管理下に置くことで息子の生き残りを図ろうとしたのかもしれません。道長にとっては彰子に子が出来なかった時の保険の様なものだったのでしょう。

 

この8年後、彰子にも道長待望の第二皇子敦成(あつひら)親王が誕生し、伊周の出世の道が完全に閉ざされます。さらに2年後の1010年、伊周薨去。1011年には一条天皇三条天皇冷泉天皇の第二皇子)に譲位後、崩御

 

この時に立太子したのは一条天皇の第二皇子で道長の孫に当たる敦成親王彰子一条天皇は第一皇子を推していましたが、道長の意向に押し切られたような形です。この頃の道長の権力は既に相当なものになっていたのでしょう。

 

三条天皇の母は道長の姉超子三条天皇道長甥・叔父の関係に当たりますが、姉の超子は早世していた上、三条天皇自身も成人してからの即位のため二人の関係は非常に薄いものだったと言います。

 

この三条天皇の下には道長の次女妍子(けんし)が入内しますが、道長三条天皇は仲違い。妍子が産んだのも親王ではなく内親王だったことで三条天皇道長の険悪さが改善する事はなく、政務も停滞。三条天皇は1014年以降眼病を患い、それを理由に道長から退位を迫られます。自身の息子である敦明親王立太子を条件に1016年退位し、道長念願の孫敦成親王後一条天皇として即位します。同時に道長自身も摂政として権勢をふるいますが、その一年後には摂政の地位を道長の長男頼通に譲り太政大臣として政界に残ることとなりました。

 

敦明親王は後に道長の圧力で自ら皇太子の地位を降り、皇太子(弟)の地位を敦良親王に譲ってます。敦良親王道長の長女彰子の次男で一条天皇の第三皇子に当たる人物です。

 

更には1018年、後一条天皇に自身の娘威子(いし)を嫁がせます。この祝いの席で望月の歌が歌われたのです。道長の望みが叶い、藤原氏としても絶頂期を迎えた時期となりました。

 

 

 

仕事面では順調だったけど・・・

 

道長は長女彰子の入内前の33歳の頃、大病を患い出家を天皇に申し出るほどの病状だったそうです。その後も度々病にかかっていたことが分かっており、威子入内の前年にも病魔に侵されていたことが分かっています。威子入内直後にも胸痛があったとか。

 

とにかく道長はかなり順調だった仕事に対し、プライベートでは病に侵されるという散々な状況だったと言えます。多少気弱になっても不自然ではない状態です。

 

この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば

 

通常通りの解釈だと『この世は自分のモノの様だ、満月のように欠けることのないように』となりますが、この道長の病気がちな状況を考えると単純に言い切れないのでは...と想像してしまいます。もちろん個人的な憶測でしかありませんが、そんな心情を想像するのも歴史を学ぶ醍醐味じゃないかな?と思います。