日本史が好きになる?歴史ブログ

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摂関政治の衰退と院政開始

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藤原頼通は1017年に道長から摂政の地位を譲られ、その道長の死後は朝政の第一人者として時代を築き上げた人物です。後一条・後朱雀・後冷泉天皇と3代の天皇摂政・関白として50年以上務めあげ、藤原全盛期を生きたと言えるでしょう。

 

そんな状況の藤原氏でしたが、頼通は娘を天皇の元に入内させたものの皇子に恵まれず、1068年には摂関家と関わりの薄い後三条天皇が誕生したことをきっかけに影響力が低下。摂関家の衰退と同時に天皇上皇を中心とした政治が行われるようになります。

 

この政治体制が後々の平家と関わってきますので、少しばかり経緯を調べていこうと思います。

 

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後三条天皇の親政と院政の開始

後三条朝では学識に優れた大江匡房(おおえまさふさ)らを重用し、摂関家の収入源の一つである荘園の管理を徹底しています。いわゆる延久の荘園整理令です。延久の荘園整理令以前の荘園整理令との違いは国司が全面的に取り締まっていた点にあります。

 

この時期は律令制の下で政治が行われていたはずの時代ですが、実際にはコネ社会私財を有力者に渡すことで官職(当然、地方政治を担う国司も含まれます)につく成功(じょうごう)や収入の多い官職に再任させてもらう重任(ちょうにん)が広く行われていたため、荘園を徹底的に調べ上げる事は不可能でした。

※ゴマすり相手の収入源を断つことになり、国司が自身の地位を失うことに繋がりかねなかったためです。

 

それを延久の荘園整理令では記録荘園券契所という部署を新設することで、国司の報告と荘園所有者の報告を合わせて審査できるようになります。その基準に達しなければ荘園停止の措置をとることができたのです。

 

延久の荘園整理令が開始された当初、10世紀頃から始まった荘園に対する不輸・不入権(=租税徴収の免除)を最大限に活かすために有力者に貸し賃を支払う見返りに名義だけを借りて荘園を維持する者が多くいました。

 

藤原摂関家荘園は当然この不輸・不入の権利を得るための手続き(=立券荘号)を潜り抜けることが出来ます。もちろん名義貸しも当然の状況ですので、今回の荘園整理令では経済打撃を受けました。

 

また、後三条天皇は第一皇子(貞仁親王)に摂関家の養女・賢子(けんし)をすすめています。この賢子、実父母が村上源氏の出自後三条朝で右大臣をしていた人の孫に当たる人物で反摂関側の思惑も見え隠れしますが、貞仁親王とは大層仲が良かったそうです。

 

二人の間に子ができ、いよいよ皇太子をどうするか?という段階になって、後三条天皇貞仁親王に譲位し白河天皇として即位させ、その白河天皇の皇子を皇太子とせずに皇太弟を立てています。摂関政治に戻させないためです。

 

実を言うと、この譲位自体が上に書いたような意図じゃなくて「病気になったために譲位した」説もあるようですが、この後三条天皇の譲位によって初めて院政という制度が始まったことになります。

 

在位期間は1068年から1073年と短いものでしたが、摂関家の力を削ぐことに成功した天皇と言えます。

 

 

白河天皇による院政

白河天皇関白藤原師実(もろざね))を置き、その養女・賢子を中宮としたものの、引き続き摂関家の権勢を弱める方向で動くことになります摂関家と反摂関家の力関係や先代天皇の意志など...様々な思惑が絡んだ結果、この方向に進みました)

 

藤原師実には氏長者の地位を巡る摂関家内部での対立があり、賢子の間に産まれた善仁親王をいずれ皇位につけたいのに反摂関家の貴族の意思もあってそれが出来ない白河天皇の利害が一致したことで協同体制を敷いていきます。

 

白河天皇の意志=師実の孫が天皇なる・・・つまりは、これまでの外戚による摂関政治に戻ることを意味します。師実が争いを好まなかったという話に加え、何かしらの目論見もあったのでしょう。自身の痛手になることも承知の上で、摂関家内部での対立を優位に進めるため白河天皇師実は協力体制に入ります。

 

そんな中で賢子が病没し、その一年後には皇太弟が薨去白河天皇の政治手腕に加えて賢子の死が後押しになったのか、1087年に8歳の息子を皇太子とし即日譲位したことで堀河天皇が誕生。自身は太上天皇となり堀河天皇の後見を務めました。

 

白河上皇が誕生して院政(=上皇として院庁を開き天皇を後見しつつ実権を握る)が始まりましたが、この時点で上皇が絶対的な権力を行使していたわけではありません。関白師実と協同で政治を行っており、白河上皇自身にも院政の意志はなかったとも言われています。実質は摂関政治へ回帰していたと言えるでしょう。

 

 

藤原師実とその息子・師通の死

1094年には師実の跡を継いで師通関白に就任します。この頃の堀河天皇は16歳で政治的に自立を目指していた時期でもあったため、師通白河上皇の政治介入へ反発していました。

 

堀河天皇が成人になると、堀河天皇・師通体制の下で親政が敷かれていた(かなり評判のいい治世だったそう)こともあって息子達の政治体制を許容する時期が続きます。

 

そんな状態を揺るがせたのが1099年の師通の突然すぎる死です。38歳の若さでした。後継者に当たるのは師通の長男で22歳の忠実。まだ大臣にもなっておらず政治的には未熟といえます。祖父にあたる師実は既に引退済みで忠実を支えきれません。この事実が院政の際に白河法皇(1096年に出家し、上皇から法皇へ呼ばれ方が変わっています)の存在感を大きくさせるキッカケとなったのです。

 

堀河天皇自身は・・・というと、白河法皇の政治への関与が強くなり朝政への興味を失ってしまいます。

 

結局1105年に忠実関白に就くことになりましたが、若いことも災いして摂関家の中で「自分の方が関白に向いてる」と言い出す者まで出てくるように。その後も忠実は何とか関白の地位に留まりはしましたが、少し前までの摂関家からは考えられない状況に陥りました。

 

堀川天皇も生来病弱だったこともあって1107年29歳の若さで崩御し、堀川天皇の皇子が5歳で鳥羽天皇として即位。当然この時にも白川法皇が実権を握って院制を敷き、さらにひ孫にあたる崇徳天皇を即位させるまでに至ります。

 

 

なお、摂関家は衰退して上皇が実権を握っていますが、当時力をつけていた武士を組織させたほか源平の武士を側近にすることによる軍事力が背後にあったことも、院政が100年余りも根付いた理由だと言えるでしょう。

 

この流れが徐々に鎌倉時代へと続くことになるのですが、また別の記事で書かせてもらおうと思います。