日本史が好きになる?歴史ブログ

このブログを見て、少しでも歴史を好きになるお手伝いができれば良いと思います。

スポンサードリンク

応仁の乱と戦国時代の幕開け

f:id:miumaga:20161111201551j:plain

応仁の乱は1467年に京都を中心に、東軍細川勝元・西軍山名宗全が戦った大規模な内乱のことを言います。

 

学生の頃【ひとよむなしい応仁の乱】と覚えた人も多いのではないのでしょうか?

日本の歴史では、この応仁の乱をきっかけに戦国時代へと突入していきます。

 

今日は応仁の乱をわかりやすくまとめてみます。

 

スポンサードリンク

 

応仁の乱による日本の変化

まず応仁の乱によって、これまでの荘園制度などが急速に崩壊し始め、荘園制度で基盤固めていた守護大名たちは次第に権力を失っていきます。変わって力をつけてきたのが国人達(地元の武士)で、これらを束ねて領国を一元支配する戦国大名が出現します。

 

それによって、もともと守護の座にいた人たちがその家臣たちによって失脚させららててしまう下剋上も頻繁に発生します。

 

応仁の乱以前は、いかに将軍の権力が弱くなろうと政治は幕府が中心でしたが、乱以降、幕府は全く機能しなくなり、戦国大名たちが独自に自分の国を治めるようになります。

 

地方の勢力が独自に自治を行い、自らの勢力維持のために戦争をするようになりました。これが、応仁の乱以降の変化です。

 

 

応仁の乱の原因 

それでは、応仁の乱を細かくに見ていきましょう。

 

応仁の乱の発端は、当時の有力守護大名の畠山氏と斯波氏などの、家督争いが発端です。この家督争いに当時の実力者細川勝元山名宗全がそれぞれの後ろ盾となり抗争に発展、それに将軍の跡継ぎ問題も混ざってしまう事で両者が争う事になります。

 

幕政の中心にあった二人が争う事になると、それを担う守護大名たちは戦わざる得なくなり、この内乱は全国の守護大名を巻き込んだ戦いとなります。

 

当時の将軍は、8代将軍足利義政で、銀閣と東山文化でお馴染みのあの人です。

 

将軍就任当初の義政は政治に積極的でしたが、度重なる配下や守護大名の対立で政治的混乱が続くために、隠居志向が強くなってきます。

しだいに茶や能、華道などの日本独自の文化や芸能にのめり込んでいきます。

肝心の幕政は管領細川勝元四職家山名宗全にまかせっきりとなっていきます。

 

こうして細川・山名両氏は幕府の中心人物となっていきます。

 

 

守護大名家の家督争い

1437年頃、各諸大名家の家督争いが絶えませんでした。その中で管領の一つ畠山家弥三郎義就で激しい家督争いをしていました。もともと畠山家の家督義就が継ぐことで決まっていましたが、家臣が納得しておらず弥三郎を擁立すべきと主張していました。

 

そんな畠山家家臣たちの後押しで勝元宗全弥三郎を推して、義就を京へ追い出す事に成功しました。しかし、この件に対し将軍義政勝元、宗全両者に被官の処刑を言い渡します。これに宗全が反発して将軍とそれに従った勝元と対立する事になります。

反発をした宗全は、勝元の嘆願もあって隠居をすることで騒動が決着します。

 

しかしこの頃から、宗全は畠山義就となっていたようで、度々義就の後ろ盾となります。

 

また、将軍暗殺ため守護職没収されていた赤松氏の再興の件でも両者の激しい対立があり、その溝がさらに深くなっていきます。

 

 

将軍家の家督争い

それに追い打ちをかけるように、足利将軍の家督争いが起きます。

将軍義政は、隠居のため自分に男子がいないことを理由に、弟義視を時期将軍にと持ち掛けます。しかし、義視はまだ義政に男子が生まれるかもしれないと断りを入れますが、義政今後男子が生まれても家督は譲らない旨の文章を書いてまで義視を時期将軍にすることを決めます。

こうして、細川勝元を後見として時期将軍は義視に決まります。

 

しかし、1465年足利義政日野富子夫妻に嫡男義尚が生まれると、富子は義尚を次期将軍にと山名宗全に協力を求めます。これにより、義視の後見人にである細川勝元義尚を推す山名宗全がさらに対立することになり、衝突が避けられないものになっていきます。

 

 

こうして1467年に応仁の乱へと向かっていきます。

 

 

応仁の乱 

この乱の戦場は最初は京都を中心に戦っていましたが、11年にも渡り戦をしていたので、次第に地方へと広まって全国的内乱へ発展していきました。

 

この戦いの主力は、雇われ農民や浪人などの質のよくない足軽が主流でした。そのため、かれらは自分の得する方へ寝返ったり、強奪・焼き討ちなどやり放題の限りを尽くして、屋敷や重要な寺社仏閣なども焼けてしまい、京の街は焼け野原になりました。

 

 

戦況も将軍義政と弟義視の仲がおかしくなり将軍家での東軍西軍が入れ替わってしまい、誰が誰のために戦っているか分からなくなってきます。そんなこともあり、幕府の権威がほぼ皆無に等しい状態になっていきます。

また、ほとんどの守護大名が京都へ遠征にきていたため、国人衆や配下の武将たちが自分たちの勢力を伸ばそうと、下剋上が各地で起きます。

 

誰のための戦いなのか分からない状態が10年ほど過ぎ、両軍の大将が相次いでこの世を去ります。最後まで畠山義就の小競り合いはあったが、細川・山名両氏の息子により和睦が成立して11年にも及ぶ大乱が幕を下ろす流れとなります。

 

最終的に、将軍職は義政が推していた義視ではなく、息子である義尚が9代目将軍となりました。

 

 

この応仁の乱で、幕府の権威は失墜して全国で守護大名の不在時の混乱や下剋上が起きて幕府の手におえない状態になりました。

 

これにより、戦国時代の幕が上がっていくのです。

 

 

 

 

最後に…

この応仁の乱で得られたものは、焼け野原になった京の街と動乱の時代、戦国時代への幕開けでした。人よむなしいとはよくいったものです。

 

太平洋戦争終結後、ある新聞記者が京都の近衛家の(元)公爵にインタビューをしたそうです。

 

公爵曰く、

『先の大戦では先祖代々の貴重な文章や文化遺産が消失してしまい誠に残念でした』

と言ったそうです。

 

そこで記者が一言、

『先の大戦では京都は爆撃されず戦災はなかったのでは?』

と質問をしたそうです。

 

その公爵曰く、先の大戦とは【応仁の乱】の事で、太平洋戦争ではなかったのです。

 

京都の近衛家にとっては、1467年の応仁の乱での京都消失がそれくらい大きくて痛い出来事だったのです。これほどまでに京の街がほぼ全焼したのです。

実際に、現在の京都で見ている寺社仏閣のほとんどは、応仁の乱以降から江戸時代にかけて再建された建物で、奈良の寺社仏閣に比べればずっと新しいものなのです。

 

 

江戸時代になって応仁の乱以前からの大名はほとんどその名を消して、島津、細川、伊達、上杉、佐竹くらいしか残っていないそうです。

 

この応仁の乱以降、日本という国は古くからの荘園制度が崩壊して、守護や地頭もなくなり、日本のシステムが一新されました。

失ったものが大きい事件でしたが、歴史的ターニングポイントとして重要な出来事だと言われています。