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日本史が好きになる?歴史ブログ

このブログを見て、少しでも歴史を好きになるお手伝いができれば良いと思います。

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保元の乱の裏事情

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平安から鎌倉時代に移行する流れを知るのに避けられない争いが保元の乱平治の乱、そして治承・寿永の乱です。 

 

簡単に言うと・・・

 

今回は一番最初に起こった保元の乱の裏側・・・皇位継承争いに焦点を当てて探っていくことにします。

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院政摂関政治の違い

どちらの場合も実務能力に欠ける天皇を補佐する役割を持ちますが

 

そのため、摂政・関白より院の方が強い権力があります。

 

と関係の深い男性・女性を近臣に置いたり后妃や乳母の一族が収益の豊かな国の国司に任命されたり・・・

 

さらに保元の乱以前に院政を行った3上皇は全員が仏教を篤く信仰。出家して法皇にまでなっており、六勝寺などの大寺院を造営して盛大な法会を行ったほか、紀伊の熊野詣や高野詣を繰り返しました。

 

この費用調達をするのに成功(じょうごう)など位や官を売る者が増え政治の乱れがさらに酷くなっていったようです。

 

 

後の院政に影響を与えた白河天皇の人間関係を見てみよう

時は後三条天皇の生前まで遡ります。父・後三条天皇摂関家外戚を持たず、東宮時代は当時の関白・藤原頼通から冷遇されていました。
 
そんな不遇な東宮の皇子だったため元服しても貞仁親王(のちの白河天皇に妃はありませんでしたが父の即位後は義理の従姉・藤原道子が、1071年には後三条天皇の希望もあって藤原賢子貞仁親王に入内しています。
 

賢子後三条で右大臣をしていた村上源氏出身者の孫娘ですが、摂関家が養女として迎え入れたため “藤原”賢子 としての入内です。このような素性から、摂関家の顔も立てつつ村上源氏勢力を強くしようとする意図が見えてきます。そういった周囲の思惑とは裏腹に貞仁親王賢子は夫婦仲は良好でした。

 
 
そうこうしている間に後三条天皇が即位4年後、貞仁親王に譲位して白河天皇が即位。この時は後三条上皇の第二皇子・・・つまり皇太弟が立てられました。もちろん上皇の言葉が絶対なので白河天皇は自身の希望を叶えられません。
 
ところが、後三条上皇崩御後に皇太弟薨去。・・・実を言うとその1年前には最愛の妻・賢子が28歳で亡くなっているという状況でした。
 
遺言により後三条天皇の第三皇子を皇太弟にさせようと白河天皇らの祖母・陽明門院後朱雀天皇の皇后)が動いていましたが、主な後見が陽明門院のみです。現天皇摂関家がバックについている善仁親王堀河天皇を降ろすことはできません。祖母の反対を押し切り賢子の忘れ形見を皇太子としたのです。

 

堀河天皇関白師通とともに親政を敷いており賢帝としても有名でしたが、やり手の師通が亡くなり補佐役の関白が政治経験の浅い人物に変わると上皇に相談せざるを得なくなり、ここから白河上皇が本気を出し始めます。さらに堀河天皇も若くして崩御すると、白河上皇の介入がますます強くなりました。


 

一方のプライベートですが、賢子が亡くなってからというもの正式な女御も妃も迎えず身分関係なく女性と関係を持ち、男性にまで手を出すまでになっています。その上で関係を持った女性や男性を近臣に加えていきます。

 

院政だけで43年も政治の中心にいましたから、白河法皇崩御後もこの近臣の関係者が白河法皇の息子や孫に仕えたり婚姻関係を結んだりして影響力を保ち続けることになります。

 

この女性絡みの信用のなさが白河天皇の孫にあたる鳥羽天皇とひ孫にあたる崇徳天皇との間に微妙な亀裂を入れることに。この親子間の微妙な関係が後の後継者争いに発展します。

 

  

崇徳天皇と周囲の関係を見てみよう

崇徳天皇の前に鳥羽天皇の話をしなければ崇徳天皇については語れません。

鳥羽天皇白河上皇の孫に当たる人物。当初、鳥羽天皇の元には白河天皇の養女・璋子(たまこ)が入内しました。崇徳天皇はそんな二人の間に産まれた親王です。

 

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実のところ、この璋子には摂関家の長男との間に縁談があがっていたのですが、素行の問題(すでに白河法皇との関係が噂されていた)によりお断りされたため孫の鳥羽天皇璋子を嫁がせた、という経緯があったりします。

 

※この時にお断りしたのが関白の忠実。当然、白河法皇と関係が悪くなり関白を罷免されるまでに。そこで白羽の矢が立ったのが息子の藤原忠通です。若い頃から様々な政治闘争の場数を踏んでいく事になります。

 

崇徳・後白河天皇を含む五男二女を儲けて1123年には息子の崇徳天皇が即位するなど順調かのように見えますが、それも白河法皇の後ろ盾があってこそ。1129年、白河法皇崩御璋子の状況が一変。後ろ盾を持たない崇徳天皇の孤立化が進みます。

 

 

保元の乱のキーパーソン・藤原得子を見てみよう

さらに崇徳天皇璋子にとって悪いことは続きます。白河法皇の乳母の孫・・・いわゆる院の近臣藤原得子の入内です。

 

鳥羽上皇得子の間に1139年体仁親王(後の近衛天皇が誕生。体仁親王は生後一か月でまだ子のいなかった崇徳天皇の元に養子に出され、1141年には鳥羽上皇が当時23歳の崇徳天皇に譲位をさせて3歳の近衛天皇を即位させています。この時点で既に天皇にも直系の重仁親王が産まれ、義母にあたる得子の元に養子として出していました。

 

※ この重仁親王の生誕を巡って崇徳天皇摂関家との関係が悪化。関白忠通の娘との間に子はできず、違う女性との間に重仁親王が誕生したためです。

 

 

そんな中で近衛天皇の即位前後から『ある噂』が流れ始めます。「崇徳天皇父親白河法皇」「璋子が得子を呪い殺そうとした」というもの。

 

もちろん当時のことなので崇徳天皇父親が誰かは知りようがありませんし、事実かどうかも怪しいものです。そのことで母親の璋子が罰せられることもあり得ません。ただ、白河法皇にも璋子にも「やりかねない」という素地があったからこそ実しやかに噂が広まっていたようです。

 

しかし、もう一つの『呪詛』に関しては当時立派な犯罪。結局璋子は出家するまで追い込まれ、得子の地位は盤石なものとなります。

 

 

近衛天皇の即位とその後継者争い

崇徳天皇が譲位し近衛天皇が即位する際、ある罠が仕掛けられていました。近衛天皇は『息子』としてではなく『』として即位するようになっていたのです。院政とは直系子孫の後見として政治を行う制度でしたから、仮に鳥羽上皇が引退し上皇崇徳上皇のみとなっても院政を敷くことは出来ない状況になってしまいました。

 

そうした中で病弱だった近衛天皇は17歳で跡継ぎのないまま崩御。次の天皇を決める事となります。崇徳上皇としては「養子に出した重仁親王天皇に」という意図があっても鳥羽法皇はまだ存命中であり、その周りも口説き落としていかなければなりません。現天皇の第一皇子であり、重仁親王天皇の有力候補だったのは間違いないのですが。

 

得子だけでなく関白忠通、エリートとはかけ離れていたけど学者の家出身でその博識を武器に鳥羽法皇の政治顧問にまでなった信西などの思惑も入り乱れ、話し合いは縺れます。

 

忠通とは重仁親王の出生を巡ってわだかまりが残ったままですし、信西はもう一人の天皇候補・雅仁親王の育て親(嫁が雅仁親王の乳母、それが出世の助けにもなっていた)です。そして、得子は母の因縁の相手。

 

重仁親王が即位すると、それまで幅を利かせていた院の近臣たちが一掃されるのは目に見えていましたから重仁親王の即位はどうしても阻みたいのが反崇徳派の心情でしょう。

 

結局、政争を長年生き抜いてきた反崇徳派の思惑が通り、跡継ぎは雅仁親王つまりは後白河天皇が即位しました。

  

政争に勝った側はいいのですが。

これらの動きで崇徳上皇は相当追い詰められたのが分かるかと思います。こんな裏事情から保元の乱が起こり、平安時代は終わりを告げていくことになるのです。