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日本史が好きになる?歴史ブログ

このブログを見て、少しでも歴史を好きになるお手伝いができれば良いと思います。

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平安時代から鎌倉時代への流れ

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長かった平安時代も終わりがようやく見えてきて鎌倉時代に移りそうなので、少し表にまとめてみます。

 

時期中央政策・方針・当時の雰囲気など地方

藤原北家の台頭

天皇の外祖父として摂政・関白になる

墾田永年私財法【743年】

⇒余力のある者が逃げ出した者を雇い、大規模な開墾を行って初期荘園が出来た

 

土地政策の転換について

農民の貧富の差が拡大

⇒逃げ出す者が増加し、律令制度が実態とかけ離れてくる

初期荘園の増加

⇒10世紀までに衰退

9世紀、大規模災害の頻発

⇒ 治安の悪化(武士が発展する追い風に)

9

藤原北家とそれ以外の貴族や天皇との権力闘争

阿衡の紛議【888年】

昌泰の変【901年】

菅原道真の左遷、藤原忠平らによる

安和の変【969年】

源高明の左遷、藤原氏最後の他氏排斥事件

藤原忠平の子孫が摂関の地位に就くように

宇多天皇朝で、滝口の武士を登用

地方政治の変化により豪族や有力農民が勢力維持拡大のために武装化

⇒ 各地で紛争発生

押領使追捕使として中・下流貴族が中央から派遣され、鎮圧

⇒ そのまま在庁官人として残り、武士となる

延喜の荘園整理令【902年】

違法な土地の所有禁止

租税免除の権利『不輸の件』と、荘園の調査をする検田使の立ち入りを拒否する『不入の権』を10世紀初頭に有力貴族や大寺社が獲得

荘園領主の独立と権力獲得、寄進系荘園の増加、税収の低下に繋がる 

ある程度の家柄でも京だと陽の目を見ないと考え、積極的に地方へ出て行く者も出てくるように

例)平将門の祖父・平高望など

律令制を戻すにしても戸籍や計帳の制度が崩れ、既に班田収授は不可能に

国司が一国を支配し税の納入を請け負わせる体制に変更 

元皇族の平氏や源氏を中心に武士たちがまとまってくる

国司と争うまでに成長

例)承平・天慶の乱平将門の乱藤原純友の乱)【935~941年】

 

 

 

 

 

 

 

摂関家内部の争い

藤原兼通・兼家【10世紀半ば】

藤原道長・伊周【10世紀後半】

道長・頼通親子の時代に摂関家絶頂期に

国司国衙の重要性↑↑

⇒初期荘園の衰退につながる

人員確保に国衙の役割が強い初期荘園は、国衙の権限が増したことで弱い立場に陥るように。開墾済みで税収の見込まれる土地として国衙領に組み込まれたと考えられる

武士の活躍の場が増えて朝廷の軍事力低下が明らかに

刀伊の入寇【1019年】

平忠常の乱【1028年】

⇒源氏の東国進出に繋がる

国司の最上席者(普通は守)は税請負人の性格を強めて受領と呼ばれるようになる

⇒次第に受領以外の国司は実務から排除、赴任せずに国司としての収入のみを受け取る遥任が増えてくる 

不正によって国司になる者が増加

朝廷や摂関家に恩を売る代償に官職に就く成功、収入の多い官職につける重任といった不正があった

・院

後三条天皇の誕生【1068年】

摂関家外戚を持たない

白河天皇への譲位と院政開始

天皇上皇摂関家・院の近臣との間での権力争いが活発になり、天皇上皇の親子関係にも亀裂の入りやすい状況に

 

※その後、後三条上皇崩御白河天皇がひ孫の代まで譲位・即位させて自身で院政を行った。

延久の荘園整理令【1069年】

摂関家の経済基盤が大きく損失

摂関家以外の者にも力を与える方針

院の近臣が力を持つように 

⇒院の近臣で力を持っていた勢力が崇徳天皇とは良くない関係

崇徳天皇上皇として院政を敷くと、その勢力が衰退する可能性

崇徳天皇の後継に皇太弟を置く原因となる 

 

引き続き朝廷の軍事力低下が露呈

前九年合戦【1051~62年】

後三年合戦【1083~87年】

源義家の介入で合戦は収まり、東国武士団が源氏との主従関係を強める

⇒朝廷が源氏の勢力拡大に危機感

⇒源氏への寄進を禁止

鳥羽上皇崇徳天皇の関係悪化

崇徳天皇の後継(近衛天皇)とその後継に皇太弟を立てる

崇徳天皇上皇として院政を敷くことが出来ない状況に追い込まれることに

平忠盛以降、平氏日宋貿易に力を入れ始める

平氏政権の重要な経済的基盤になる

源義家の息子が出雲で反乱

※寄進の禁止による反乱かどうかは不明

平清盛の祖父・正盛が追討

鳥羽上皇崩御【1156年】

摂関家の内部闘争

関白の忠通藤原氏長者頼長との間で後継争い 

正盛の子・忠盛が瀬戸内海の海賊を平定

⇒とする伊勢平氏鳥羽上皇の信任を得る桓武平氏のうち伊勢・伊賀を拠点

平氏が重用されるきっかけに

崇徳上皇は実子を後継に希望するも、元々の皇太弟が後白河天皇として即位

平安京保元の乱【1156年

後白河天皇の勝利/摂関家の凋落

  

貴族社会の争いまでも武家が治められるまでになったことが分かり、武家の価値が急速に高まるように

 

 

源義朝平清盛らが保元の乱に参加

⇒共に後白河天皇方に付き、勝利を収める 

 

院近臣らの間で対立

清盛と信西派、藤原信頼源義朝派。

後白河上皇院政派と二条天皇親政派による対立

平清盛平氏を重用される

源義朝は長男に東国を任せ、自らは京へ出向く

平治の乱勃発

平清盛の勝利/信西は既に自殺、信頼・義朝も滅ぼされる

いわゆる『平家にあらずんば人にあらず』全盛期の時代。この発言をした人は大層反感をかったそう

 

 

 

平氏の機運が最高潮になる

平治の乱負けた源義朝の三男・頼朝らが伊豆へ流刑

 

 

 

 

 

 

後白河法皇の皇子・以仁王畿内に拠点を持つ源頼政が挙兵の命令を諸国に出す

 

 

伊豆にいた源頼朝源義仲が挙兵

平清盛太政大臣にまでなる

⇒他の一族もみな高位につくことに

娘を天皇の中宮に入れ、その子を天皇に即位させ外戚となる

=貴族的性格の強い政権

⇒旧勢力からの反発

鹿ヶ谷の陰謀【1177年】に発展

後白河法皇の幽閉【1179年】

さらに関白以下多数の貴族らの官職を奪い処罰する

清盛の外孫・安徳天皇の即位【1180年】

承平・寿永の乱勃発へ

 

この承平・寿永の乱壇ノ浦の戦い平家が滅亡源頼朝鎌倉幕府を開いていきます。

 

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