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日本史が好きになる?歴史ブログ

このブログを見て、少しでも歴史を好きになるお手伝いができれば良いと思います。

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織田信長の天下布武は最初は小さい天下だった!?将軍追放との関係とは…

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天下統一と聞くと一般的に全国を平定すると捉えますが、最近の研究では必ずしも

天下=全国ではないと言う考え方があるそうです。

 

そのため、信長が岐阜城を拠点とした頃に考えた『天下布武』が全国を武を持って治めると言う意味ではないと言うのです。

 

美濃と尾張の2国の治めるようになった信長が次は全国平定だと意気込んで、夢は大きくて素晴らしいと思っていましたが、この『天下布武』の最初の意味は実は小さい天下だったようです。

 

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この事を知る手掛かりとして足利義昭が深く関わってきます。

今日は、足利義昭の15代将軍就任から追放(室町幕府滅亡)を説明していきながら、天下の意味を考えみたいと思います。

 

 

まずは信長の動きを見てみましょう。

  1. 1568年 足利義昭を奉じて入京
  2. 1570年 姉川の戦い
  3. 1571年 浅井・麻倉に加勢した延暦寺を焼打ち
  4. 1573年 足利義昭を京都から追放(=室町幕府滅亡)

 

上記を見るように、信長は1568年に岐阜から六角承禎の支城箕輪城を落として、足利義昭を奉じて上京に成功します。

 

その時の事が信長公記に以下の様に書かれています。

 

『家臣たちの乱暴狼藉を未然に防ぎ、畿内の逆従等の撤退…』

天下御存分に属し…』

 

この文面から、畿内抵抗勢力がいなくなり天下がおさまった的な表現がされている所をみると、当時の天下の範囲が畿内制圧のことを指していたことが予測できます。

 

ちなみに畿内とは、山城・大和・摂津・和泉・河内の5カ国事を指します。つまりこの頃で言う天下は、全国統一ではなく天皇・将軍のいる京都とその周辺を指していることになります。

 

 

実際にこれまでの歴史を見ても、必ずしも北から南まで全てを統治をして全国を平定していたと言うより、天皇や将軍のいる京都を中心とした地方を抑えるのが一番の方法だったといえます。

 

信長も1568年現在は、足利義昭を奉じて15代将軍になってもらい室町幕府の再興と言う大義名分のもと諸勢力を従えさせたかったと考えてたはずです。

 

 

足利義昭織田信長

信長の軍事的なサポートのおかげで征夷大将軍となった義昭ですが、自分だけの力で室町幕府戦国大名たちを取り仕切ることが出来ませんでした。独自の軍事力を持たない義昭は、信長の後押しがなければ何もできないのです。

 

 

とは言っても、義昭は将軍様なので全く影響力がない訳ではありませんでした。

建前上は、室町幕府再興での将軍職ですので幕府のトップは足利義昭であるのは当然ですし、信長もそこは認めています。

 

義昭は将軍と言う自負を強く持っていたのでしょう、就任後に諸国の大名に対して、「御内書」(ごないしょ)という命令を信長に無断で発行します。

強い権力の将軍であればこのような命令はあってしかるべきものですが、義昭は決して強い将軍ではありません。建前上は上でも、実質の権限者は信長にあります。

信長はすぐ、義昭宛てに『殿中御掟』というものを定めて義昭の行動を規制しようとしました。

簡単に言えば、【あとは私が仕事しますんで、社長はだまって見ててください。】という事です。

 

 

以上のように、義昭と信長の関係はとてもギクシャクした関係だったことが分かります。信長にとっても諸勢力を抑えるために必要な飾りですから、むげにもできません。

 

そして信長は、将軍の名をうまく利用した行動に出ます。

 

 

 

姉川の戦いと信長包囲網

この頃信長は、将軍の名を利用して諸勢力の大名を呼びつけています。

主に畿内を中心とする諸武将に対して、新将軍への挨拶を求めました。この新将軍の挨拶は江戸時代には当たり前な慣例でしたが、この時にはまだ浸透していなかったようでしたが、こんな狙いがあったようです。

 

 

将軍義昭の自尊心を満たす

いちいち突っかかってくる義昭でしたが、信長は出来る限り義昭と良好な関係を作ることに力を注いでいます。そのため、義昭に諸大名を従わせる将軍としての自覚をより強く持たせ、強い支配体制を作ろうとしました。


信長の実力を認めさせる

将軍義昭への忠誠は、織田信長の実力、存在感をを認めさせることにもつながります。

 

朝廷・公家・寺社・民衆に信長の力を見せつける

諸武将を従わせたのは、京都の朝廷や、諸大名に従う民衆や寺社勢力に対しても、新将軍義昭・信長による新しい政権が出来たことを知らしめることが出来ます。そして、この挨拶を拒否したものは、平和を乱すものとして武力征伐する大義名分が出来るのです。信長は、義昭を使い倒すべき相手の明確化を図ったのです。

 

 

 

これにより、挨拶に来なかった朝倉孝景と戦う事になります。

 

1570年4月の1度目の戦いでは、朝倉が構える敦賀まで兵を進めるも、同盟国でもある浅井長政の裏切りによって撤退を余儀なくされます。のちに織田信長徳川家康を味方に加えて戦力を整え、勝利を手に入れます。これが姉川の戦いです。

 

しかし、戦いに勝っても浅井・朝倉両家の影響力は依然として強く、両家が治める勢力範囲までは手に入れることができませんでした。さらに、浅井・朝倉は、比叡山延暦寺の宗教勢力と手を組み、六角氏とも同盟を結ぶことに成功しており、逆に京都を脅かす存在になっています。このあたり名門とといったところでしょうか?


そんな背景もあり、最終的に織田信長は武力征伐ではなく、講和に持ち込む道を選びます。その後、1571年に比叡山延暦寺は焼き打ちにすることにより、今後こうした動きに同調する勢力が増えないように予防し、寺家を権力を削ぐ事にもつながりました。

 

 

こうして着々と信長の戦果をあげていき支配を固めて行ったわけですが、それが義昭との対立を決定的にしていきます。段々と追い詰められた義昭は反信長包囲網と称して信長を討つことにします。

 

この包囲網に呼応した人物が甲斐の国の武田信玄で、義昭に対して忠誠を誓う起請文を送りました。当時の武田信玄は、信長も恐れるほどの大名でした。その信玄の元に、上杉謙信本願寺顕如、浅井・朝倉らも加わることになり、反信長包囲網を作っていきます。

 

1572年10月の事でした…

 

これにより、織田信長は窮地に追い込まれることになります。

 

 

 

足利義昭追放と室町幕府滅亡

織田家に対する反信長包囲網の脅威が着々と迫ってきましたが、1573年4月に反信長派の筆頭武田信玄が病に倒れ、その生涯を突如終えることになります。

 

足利義昭は反信長の筆頭を失ってしまいました。それでも信長は、諸勢力を抑えるために幕府の存在は必要と考えていたため、和解に乗り出しますが、義昭はこれを2度にわたって拒絶します。

 

仕方がなく信長は、義昭の居城、二条城を焼打ちにして丸腰にして追い詰めます。折れた義昭は一旦和睦しますが、その後再び勢力を取り戻そうとわずかな味方を集めて挙兵しました。こうなると信長も見限るしかありません。こうして足利義昭を京から追放をすることになります。

 

 

こうして室町幕府が終焉していきます。

 

 

 

織田信長と朝廷

こうなると、信長は足利義昭追放後、何を支配の根拠としていくのか?という大義名分が必要になります。そこでの次に目をつけるのが朝廷です。

 

 

この頃、信長は朝廷のある京都のすぐ近くである安土に壮大な城を築きます。子の安土城の城下町経営で手腕を余すところなく発揮し、結果的に京都の治安を安定させることに成功します。

 

これまで京都では、室町幕府が強い支配力を発揮していなかったため、応仁の乱の焼け野原になって以降、治安も良くない状況状態が続いていました。安土城を築いた結果信長は、こうした社会情勢を好転させたのです。

 

そんな功績から、1575年には朝廷から従三位権大納言の官位が与えられ、次いで近衛大将にも命ぜられます。実はこの官職は、征夷大将軍以上の価値を持つ官位でした。そんな官職を信長に与えたと言う事は、朝廷が正式に室町幕府の後継者として認められた瞬間でもあります。

※1192年の鎌倉幕府が1185年になったのがそのあたりが理由らしいです。

 

この朝廷からのお墨付きをもらった事によって、天下の支配正当性の大義名分を手に入れたことを意味します。かと言ってこれまでの反信長勢力が信長に従ったかというと、そうではありません。

 

今度の天下布武への道は、将軍を奉じ畿内を抑えるだけじゃ平定できません。北陸には一向宗上杉謙信、西には毛利輝元と本願顕如が反対勢力として新たに包囲網を企画しています。

 

そうなると信長は、これらの大名を攻略していかなくては、天下が治まりません。

 

この頃から、織田家は天下=全国統一となっていきます。

 

それが分かるのが1580年頃、柴田勝家が調略中だった人物に宛てた書状があります。

その内容は、織田家の戦況や大阪の本願寺撤退の件などを伝えたうえで、『天下統一の御望の面々が信長への服属を望めば自分が取り次ぐ』と国衆らに伝えた文章があります。

 

この頃は京都周辺をすでに統治下に置いていたので、天下統一はどう考えても京都周辺ではなく、全国統一であることが推測出来ます。

 

 

 

そして本能寺の変

1578年信長は、右大臣・右近衛大将の役職を辞任します。

この理由はまだ明らかになっていませんが、一つ言える事は信長のキャッチフレーズは、【天下布武】です。この段階で、武家・寺家・公家のうち寺家は比叡山焼き討ちをして力を削いでます。武家は自分なので、残りは公家です。

 

朝廷の役職についていると、どうしてもそのしがらみがついて回ります。おそらくは、そのしがらみから自由になり、独自の支配力を強めていこうとしたのかもしれません。

仮に朝廷の権力を借りた天下統一では、朝廷のおかげで統一が出来たと言う貸が出来てしまいます。その朝廷の権威を借りずに信長は、天下統一を目指したのだと私は考えます。そのうえで、公家の権力を何らかの形で削いでいこうと考えてたのでしょう。

 

 

しかし、天下布武を成し遂げることが出来ずに1582年6月2日本能寺の変が起こることになります。信長は、天下布武の夢を実現することが出来ませんでせんでしたが、その夢は配下であった豊臣秀吉により実現されることになります。

 

 

 

人間50年下天のうちをくらぶれば

夢幻の如くなり、一度生を受け滅せるもののあるべきか…

 

 

rekishi-note.hatenablog.com