日本史が好きになる?歴史ブログ

このブログを見て、少しでも歴史を好きになるお手伝いができれば良いと思います。

スポンサードリンク

平治の乱はどんな経緯をたどったのか?

f:id:miumaga:20170112110954j:plain

 

平治の乱(1159年)は、保元の乱(1156年)の戦後処理に不満を抱いた勢力が平清盛らに挑んだ戦いと言われ結局は仕掛けた方が敗戦。この戦いで信西藤原通憲という人物が出家)という実力者が亡くなったことで、平清盛に権力が集中し始めます。 

 

今回は平清盛の権力集中のきっかけとなった平治の乱までの経緯を人間関係などから調べていこうと思います。

スポンサードリンク

 

後白河天皇の譲位

本来は皇位継承から遠い後白河天皇。喉を傷めるほど今様(流行歌)にはまり込み、身分関係なく遊び相手がいたそうです。亡き鳥羽院からは天皇の器じゃない的な事も言われていましたが、近くに政治的手腕の優れた人物を置くことで上手く自身の地位を確立していきます。

 

その筆頭が信西藤原通憲藤原信頼です。

 

そんな順調に地位を確立してきた後白河天皇ですが、これまでの『天皇⇒息子に譲位⇒院政を敷く』という一連の流れ通り、1158年後白河天皇二条天皇に譲位します。

 

そもそも後白河天皇天皇になったのが『守仁親王二条天皇天皇にしたいけど、父親の雅仁親王後白河天皇を差し置いて天皇ってどうよ?』って経緯なので、早く二条天皇を即位させたい有力者がいたわけです。その有力者とは二条天皇の養母美福門院鳥羽院の寵姫で遺産の多くを相続しており保元の乱後も変わらず影響力を持ち続け、後白河上皇による院政よりも二条天皇による親政を望んでいました。

 

元々くすぶっていた後白河朝内部での権力争いに加えて、二条親政派の思惑も絡んで徐々に不穏な空気となっていきます。

 

 

藤原信頼とはどんな人物だったのか

鳥羽院政下、院近臣・藤原忠隆の四男です。裕福な受領出身で、藤原道長の兄・藤原道隆が祖。刀伊の入寇で九州の武士をまとめあげた隆家も出身の『』に秀でた家として知られています。

 

信頼後白河天皇の寵臣として知られていますが決してそれだけではなく、裏では武士の力に着目し、確実に武士との関係を深めていくような人物です。

 

武士の軍事力の源泉である軍馬や武器の調達の拠点・陸奥国を抑え、源氏と関係の深い奥州藤原氏と縁戚関係を結ぶことで義朝と関係を深めます。 同時に軍事的に最大勢力だった平氏に対しても、平清盛の娘と自分の嫡男の間で婚姻関係を結び信西切り崩し作戦の意味もあった)着実に地盤を固めていたのです。

 

 

信西藤原信頼の関係は・・・?

信西藤原信頼は同じ後白河上皇の近臣ではありますが、政敵の間柄でした。

 

そんな中で信頼保元の乱の後に近衛大将(『武』を重んじる人にとってはかなりの地位。ただし、この経緯については諸説ある)を希望するも、信西にその就任を阻止されます。

 

もちろん、この希望を信西が拒否したのには理由があります。

 

保元の乱以降、影響力が少なくなっていたとは言え摂関家関白基実(もとざね)が信頼の妹婿であったことにあります。摂関家にとっては軍事力の要を抑えた藤原信頼と近づくのに大きなメリットがあったためですが、同時に院近臣である信頼の影響下に入る事となります。軍事力に加え家格(もともと信西よりも家格は上ですが)までも有した信頼信西が危機感を抱くのは当然でしょう。

 

これを機に信頼信西の仲は決定的に亀裂が走る事となります。

 

 

信西が結んだ人物は・・・?

藤原信頼が主に源氏の軍事力を掌握している一方、同じく近臣である信西平氏との関係を深めており清盛平氏を厚遇していきます。

以前の記事でも書いた寺社勢力への抵抗という意味で平氏の力が必要だったためというのは勿論、信頼との関係も平氏を厚遇した要因でしょう。

 

平氏側も信頼との関係はあるものの源氏と信頼の関係を考えると信西との関係の方に重きを置いたと考えられます。

 

 

信西網の結成

信西後白河上皇の周りを身内で固めて本来ならその地位に就けたはずの公家たちが反感を覚える中、信頼後白河上皇の近臣・藤原成親の囲い込みに成功。成親の妹を信頼が妻としていた関係から行動を共にするようになったと言われています。

 

また、後白河上皇による院政に反対していた二条親政派の取り込みにも成功。信西が確実に作り上げられていきます。

 

 

信西の自害と平治の乱の勃発

1159年に事件は突然起こります。信西平清盛の熊野詣に行く軍事的空白を突いて信西を自害に追い込み、上皇天皇を奪取。クーデターが成功し信頼による臨時政権が樹立します。

 

清盛らがそんな異変に気付き戻ってくる際、途中で待ち伏せして叩こうという案があったものの京での迎撃を選んだ信頼。最大の軍事派閥の平氏を迎え撃つには秘密裏に決行したクーデターの軍勢だけでは不安なこと(場所は京。源氏の拠点は関東)信頼との姻戚関係から陣営に引き込めるかも・・・といった思惑が信頼にはあったのです。

 

ところが、政治的に対立していた人達も内包していた臨時政権だったため運営が上手く行きません。二条親政派にとって信頼は用済み。逆も然り。冷たくあしらわれた二条親政派二条天皇脱出計画を立て、密かに後白河上皇清盛と連絡を取り合います。

 

一方の清盛は・・・というと、日本最大の軍事派閥だけあって出先でも軍勢をしっかりと整えつつ表向きは信頼に恭順の意を示しました。

 

一見すると信頼にとっては思惑通りでしたが、二条天皇後白河上皇清盛の屋敷へ脱出したことで形成は一気に変わります。官軍としての態勢を整えることが出来た清盛ら。平氏の方に大義が出来たことで信頼源氏らとの合戦を選びます。

 

このクーデターから合戦までの一連の戦いを平治の乱と言い、結局は官軍となった清盛ら平氏の勝利となりました。

 

 

平治の乱の後の政治体制

結局、後白河上皇二条親政派共にクーデターを画策した者達は失脚。中でも信頼は首謀者として処刑され、義朝も殺害されるに至ります。

 

当時13歳だった頼朝は謀反人の子ではありましたが、伊豆への配流で済みました(源氏の影響力の強い関東への配流は疑問ですが)頼朝が伊豆への配流で済んだわけですから、義経含む他の子達も助命されています(代わりに義経らの母、常盤御前が清盛の妾となったと言われますが定かではありません)

 

この処罰が後に命取りとなりますが、当時は分かるはずもありません。

 

後白河上皇信西の死を機に政治的影響力を失いましたが、二条天皇も中心人物が逮捕されたことが打撃となり、後白河院政派と二条親政派は膠着状態を保つことになります。

 

とにかく平治の乱では平清盛はじめ多くの平氏が恩賞を賜り後の平氏政権の基礎を築くことになったのです。