日本史が好きになる?歴史ブログ

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治承・寿永の乱(源平合戦)に参加した人たちの思惑を調べてみる

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1179年に発生した治承三年の政変。これに伴い、後白河院の第3皇子以仁王が挙兵。諸国に令旨(王の命令)を出し様々な勢力も挙兵していきます。

 

  • なぜ反平氏に至ったのか?
  • なぜ以仁王の令旨に従ったのか??

 

事情が分かれば源平合戦に発展した理由も見えてくるはず。そんな訳で源平合戦に参加した人たちの思惑を調べてみようと思います。

 

治承・寿永の乱に参加したのが源平のみの勢力だけでなかったため、源平合戦は不適切という言い分もあるようだが、今回は分かりやすいので源平合戦という呼称も使っていく。

 

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以仁王の挙兵

1180年6月、後白河院の第三皇子で高倉天皇の兄・以仁王源頼政と共に挙兵。これを機に諸国の反平氏派も兵を挙げることとなり、様々な寺や武士たちによる全国的な争乱治承・寿永の乱へ発展していきます。

 

以仁王は有力な皇位継承者でありながら、自身の息子を皇位に就けたい後白河院の寵姫、故平滋子(建春門院)の妨害により親王になれなかった過去を持ちます。1180年の時点でも親王になれないまま。ところが彼には母代わり(=准母)八条院という後ろ盾がありましたので、出家もせずに一縷の望みをかけていました。

 

 

八条院鳥羽天皇美福門院の間に産まれた皇女。史上初めて后位につかずに女院となった。父・後白河院と対立していた二条天皇が美福門院の死により不利な立場に陥ると考えられたことから、二条天皇の准母(じゅんぼ)暲子内親王を自らを権威付けのために女院八条院にしたとの事。

なお、八条院は父母の遺領などを受け取って中世皇室領の一大勢力をなしていた。八条院に政治力はなかったものの後白河院清盛も無視できない存在だったという。

 

 

そんな最中に高倉天皇が息子の安徳天皇に譲位したものだから以仁王は堪ったものではありません。安徳天皇平清盛の娘・徳子建礼門院高倉天皇の間の皇子。つまりは外祖父として清盛が政治を牛耳ることができるようになったのです。更に平氏政権下では後白河院周辺の近臣らの所領が没収されています。これには以仁王の所領も含まれていました。 

 

以仁王天皇即位どころか親王宣下も絶望的となったうえに経済基盤の一部も没収されたのです。

 

一方の源頼政の挙兵理由は、長年の平氏による専横源氏の不遇が挙げられます頼政は信心深く平家と敵対した寺を重視したため、高倉天皇安徳天皇の即位が忠誠を誓った天皇の系統と異なるためとの説もある)

 

こうして以仁王源頼政による挙兵が実現されました。ですが、熊野山を信仰する神社内部で令旨から反平氏派と親平氏派による争乱に発展。結局、熊野山の偉い人が事態収拾を図るため平氏に謀反を密告したことで挙兵は失敗に終わります。

 

 

 

園城寺東大寺興福寺

一番理由がハッキリしているのは園城寺ですね。

園城寺延暦寺と度々衝突していたお寺です。延暦寺を優遇する傾向にあった平氏に対する不満は大きなものでした(ただし、この頃の延暦寺も親平氏派と反平氏派に分かれており平氏にとっては延暦寺も油断できない勢力の一つになっていた)

 

 

他方、東大寺歴代天皇と縁の深い寺興福寺藤原氏の氏寺です。

 

どちらの寺の場合も、クーデターが起こって後白河院が幽閉され松殿基房(名字は違いますが、藤原氏出身です)が降ろされた事で危機感を覚えたため、軍事行動に移ったと言われています。

 

しかし、両寺ともそれだけに留まりません。過去平治の乱の後)平清盛大和国東大寺興福寺共に大和国にある)知行国として治めた時、既に既得権益を持っていた大寺社勢力がその特権の一部を取られたことがそもそもの始まりだと言われています。

 

知行国とは…知行国となって一国の支配権を得た国のこと。国司を推薦できる権利があったため、自分の味方を国司に置き、税などの収益を得ることが出来た。

 

 

源氏の挙兵

治承・寿永の乱は別名だと源平合戦というくらいです。治承・寿永の乱で源氏勢力は無視できません。

 

源氏の挙兵には、貴族化する平氏に対する武士の不満保元の乱平治の乱以降の処遇に対する不満等が考えられますが、それだけに留まりません。

 

源頼朝源義仲の意志だけで多くの武士は従えられないからです。彼らの下についた武士たちの思惑も重なったことで士気の高い軍を率いることが出来ました。

 

 

まず、当時の状況として地方が知行国が変わるなどして権威や利益を得る者が変わっていた事が挙げられます。特に治承三年の政変以降は清盛が多くの知行国を獲得したことで、それまでの既得権益を得ていた者達がその益を失っています。当然、失った立場の者達は反平氏にまわりました。

 

加えて平安時代には荘園での名義変更等の不正もあり、関東や東北の武士たちは土地を新しく開墾しても労力に見合う権利を与えられていませんでした。

 

そんな関東・東北の武士達の不満が渦巻く中での以仁王令旨です。下っ端?の武士達は平治の乱で伊豆に流された源頼朝やその従兄弟の源義仲に目をつけ、頼朝義仲を旗頭に集ったのです。

 

頼朝はこの挙兵の時に鎌倉に本拠地を築いたことで関東での政権が樹立。のちの鎌倉幕府につながります。

 

それぞれ様々な思惑を持って挙兵したのがわかります。理由があって挙兵しているので当然士気は高い。一方の平氏は都で半貴族化。平氏側が敗れたという治承・寿永の乱の結果は当然と言えば当然だったのかもしれません。