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日本史が好きになる?歴史ブログ

このブログを見て、少しでも歴史を好きになるお手伝いができれば良いと思います。

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徳川幕府と外様大名の関係

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関ヶ原の戦いで幕府を起こし、大坂の陣を経て徳川家による本格的な幕藩体制がスタートします。各大名家はある程度の統治の権限を保ちながら徳川家の臣下となることで、徳川将軍家は、直接または間接的に全国を統治していきました。

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徳川幕府の方針として、検地や士農工商※の身分制度によって身分間の移動を極端に抑えて、農村の安定化を図り生産力を上げました。また、各大名家には参勤交代や江戸、名古屋といった幕府直轄の城の修繕をさせる事で、各大名家にお金を使わせて弱体化を狙いました。士農工商身分制度には諸説あるので別の機会に詳しく書きます。

 

さらに、関ヶ原以降に幕臣となった外様大名を中心に改易や転封、減封という形でも弱体化をさせていきます。

 

大名には、外様大名親藩大名譜代大名と3種類の大名があり、1万石~100万石まで、300もの大名家一国一城令のもと、統治をしていました。

 

改易などによる大名家の弱体化は、外様大名だけに限らず、譜代・親藩大名も対象となり、江戸時代通じて外様大名127親藩譜代大名121が改易処分を受けたそうです。

 

実はこの改易、譜代大名より親藩大名のほうが改易処分を受けていることが多く、幕府にとっては、外様大名と並んで身内こそが最も注意すべき対象であるということなのでしょうか。その処分理由も、ほとんどが言いがかりみたいなもが多かったそうです。

 

主な大名構成として、有力な外様大名は、江戸から離れた地域に置き、江戸の中心や各主要な都市部は、譜代・親藩大名で固めていました。実際に、関東や東海地方は徳川ゆかりの藩が占めており、戦略的に江戸へ攻めることが難しい配置となっています。

 

また、幕府の主要な役職も譜代大名か旗本で占められていて、桜田門外の変でおなじみの大老 井伊直弼は、譜代大名の井伊家出身です。

 

 

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徳川政権下の外様大名の立場

外様大名とは、関ヶ原以降に徳川に臣従した大名の事ですが、徳川生え抜きの譜代大名と徳川家の縁者の親藩大名に比べて、直接幕政に参加できないという意味では、幕府内では立場はありませんでした。

 

しかし、大名の家格という点でみると、国もち大名が多いのも外様大名の特徴でした。

大名の家格とは、親藩・外様・譜代という区別のほかに、国主・準国主・城主・城主格・無城という区分もありました。

 

先ほども少し触れましたが、幕政に参加しているのは主に譜代と親藩大名で、彼らが家格として上の外様大名支持をして幕政を取り仕切るという逆転現象が起こっていました。それによる不満も少なからず外様大名たちにもあったようです。

 

加賀百万石の前田家は異例の扱いを受けていた

これを見ると、外様大名は冷遇されていたように感じられますが、例外というのはあるもので、加賀の前田、薩摩の島津、仙台の伊達、長州の毛利などの国主級の大名達は、婚姻などで徳川家と親戚関係を深めており、徳川家の母体となった姓である松平の姓が与えられていました。

 

その中で特に破格の扱いだったのが、加賀藩の前田家松平姓と葵の紋を与えられただけではなく、家格も御三家に準じた親藩として扱われました。一国一城令を発令したのにもかかわらず、一国二城が認められるなど異例の扱いを受けていたようです。

 

前田家と聞いて有名なのは、豊臣政権下では五大老の一人でもあった前田利家。当時は徳川家康に対抗する存在でした。そのため、徳川が天下を取った今は、一番に目をつけられても良いのですが、加賀藩2代目藩主前田利常が2代目秀忠の娘を娶ったことにより徳川家との血縁が生まれて松平姓を与えられます。

 

それでも、江戸時代の初期の改易、減封ラッシュの中で前田家もその例外ではなかったが、前田家は徳川家との婚姻を繰り返すことにより、新しい政権下での地位を確立していくのです。

そのため、加賀藩の家臣たちには、大名級の石高の前田家家臣もいて、金沢の人口も江戸・京都・大阪に次ぐ10万人を超えており、独自の文化が発達していたようです。

 

 

加賀百万石の経済規模は、今のお金に換算すると、400億円~1000億円規模になるそうです。平成25年度の石川県の税収は、1377億円と考えると、ものすごい数字だと言う事がわかります。加賀藩は富山も含まれているので、その限りではありませんが…

 

このような、加賀百万石の大名でさえ、いくつもの危機を乗り越えて徳川政権下で確かな地位を築き上げてきたのです。このように外様大名は、江戸時代通じてアウェイを感じながらうまく立ち回っていたのです。

 

 

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