日本史が好きになる?歴史ブログ

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ヤマト政権と聖徳太子【厩戸王】の国家改革

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縄文時代弥生時代には日本国内で記された史料がないため、邪馬台国卑弥呼の存在や状況は【後漢書東夷伝や【魏志倭人伝となどの史料が手がかりとなります。

 

その手がかりである古代中国の史料も、卑弥呼が没した後の248年からの約100年間、史料には日本の状況がかかれていません。

そのため、この時期は謎の4世紀と呼ばれています。

史料に日本が現れるのが、5世紀を迎えた時の事です。

この時期に奈良県大和地方に【ヤマト政権】という連合政権が誕生しています。大王たちを中心に支配されており、その範囲は九州から北関東まで広げていたそうです。

 

5世紀後半には、 倭の五王(讃・珍・済・興・武)と呼ばれる5人の有力な大王が政権を握っていました。中でも、武(雄略天皇)は、中国の南朝・宋に対して使いを送り、服従の意を示すことによって、自らの政治的立場を強くしていきます。

 

そんな中、東アジアの情勢が変化します。

 

589年、三国時代などの経て群雄割拠が続いていた中国に再び統一王朝【】が誕生します。この隋はとても強力であったため、日本のみならず東アジア全体に影響を与えました。

 

中国との国交は、武【雄略天皇】以来途絶えていました。

きちんとした国交を開かないと、たちまち隋に飲み込まれてしまう可能性がありました。そこで、593年から推古天皇摂政として政治を行っていた、【聖徳太子】は隋へ外交に乗り出します。

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第1回の遣隋使の派遣

600年に1回目の遣隋使の派遣を行います。

隋の皇帝に対して使者を送り、国交樹立を提案しますが失敗に終わります。

当時の日本の政治や制度があまりにも遅れており、外交関係を結ぶような国家として認められなかったのです。

 

そこで聖徳太子は、この失敗を活かして、国としての秩序を作ろうと国家改革を行います。改革を通して、天皇を中心とした中央政権的な政治を作ろうとしたのです。

 

隋を相手にするには、日本も天皇を中心に1つにならなければいけないと判断したのです。

 

この代表的な政策が…

 

603年に制定した【冠位十二階】と604年の【十七条の憲法】です。

冠位十二階の制

これは氏姓制度によって決まっていた家柄による身分・職業制度の改革でした。

より有能な人材を登用し、国家機能を発展させる事が目的です。

氏姓制度では「家」に位を与えていましたが、冠位十二階の制では「個人」単位で冠位を与えたところが大きな違いです。

 

十七条憲法

これは天皇の命令にしっかり従って働くようにという役人の心構えを示す内容です。

憲法というと全国的に公布したように感じますが、あくまでも役人対象なので間違わないようにしましょう。

 

 

第2回の遣隋使の派遣

こうした政治改革の後、リベンジのため2回目の遣隋使の派遣を行います。

この2回目の遣隋使派遣で小野妹子が選ばれます。

 

史料としては、

 

大業三年、其の王多利思比孤、使を遣して朝貢す。(中略)其の国書に曰く、「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す、恙無きや云々」と。帝、之を覧て悦ばず、鴻臚卿に謂ひて曰く、「蛮夷の書、無礼なる者有り、復た以て聞する勿れ。」と。明年、上、文林郎裴清を遣して倭国に使せしむ。
                       引用元:『隋書』倭国


大業3年とは、607年の事です。

 

遣隋使が行われるまで、日本は中国王朝に対してずっと服属の意志を示してその権威を借りる形式でした。それを従来の朝貢関係ではなく、対等な外交関係を求めている文言が盛り込まれました。

 

当時の日本は、朝鮮半島の利権をめぐり新羅と対立していました。

新羅との対立において、隋と対等な関係を築いておくことは大きな効果があります。

 

しかし、隋の皇帝は【対等な外交はもってのほか、今まで通りに…】と考えており、倭国はこれまでと同じ従属している国と位置づけていました。

それゆえに小野妹子が渡した書状に対して皇帝は激怒したとされています。

 

この時期、隋の方も高句麗と緊張関係にありました。

そのため、倭の国からの国書を拒絶して倭国高句麗と手を組むような事があれば、隋にとって厄介なことになります。こうした背景から、激怒した皇帝でしたが、隋は倭国と対等な関係を築く以外の選択肢がない状況でした。

このような状況は、決して偶然ではなく倭国も隋と高句麗の関係性を知っての上での外交策だと言われています。

 

 

聖徳太子について

この記事では、【聖徳太子】が国家改革を行ったと書きましたが、最近の教科書には聖徳太子の扱いがどんどん小さくなっているそうです。

 

最近の研究で、【聖徳太子】の存在そのものが疑問視されているのです。

 

では、聖徳太子がいなかったと言われればそれも違うようで、私たちがよく読んでいる聖徳太子という名前がそもそも本名ではなく厩戸王なのです。

 

厩戸王は、574年~622年に実在した飛鳥時代の政治家です。

用明天皇の皇子として生まれて、19歳で推古天皇摂政となり先ほど書いた、数々の偉業を成し遂げました。この功績をたたえて後に【聖徳太子】として人々にたたえられ、その名が現在に定着しています。

 

上記のような功績ありきの【聖徳太子】と言う名前後世につけられたのです。

 

この功績が本当であれば、厩戸王聖徳太子でOKなのですが、彼の行ったとされる実績である「冠位十二階」「憲法十七条」「国史編纂」「遣隋使の派遣」「仏教興隆(三経義疏法隆寺四天王寺の建立)」などを一人の人物がすべてやったとは考えられないというのが事実です。

 

厩戸王の史料をすべて調べてみると、これらの政策に彼を中心に進められてきたという完璧な証拠がないというのが今の見解です。

しかし、政治家であることは間違いないので、政権の中枢を担っていたのには違いはありませんから、無関係とも言い切れません。

 

要するに現時点では、グレーゾーンだということです。

 

 

では、どこの誰が【聖徳太子】作り上げたのでしょうか?

 

厩戸王の死後に壮絶な皇位継承争(壬申の乱)が起きます。天皇の権威は失墜して、勝者となった天武天皇天皇中心の中央集権律令国家をすすめていきます。

rekishi-note.hatenablog.com

この時に天武天皇は、【厩戸王】という人物に着目して、彼の生きた時代の施策を膨大評価して、これらの偉業すべてに関与して成し遂げたとして【聖徳太子】を作り上げたのです。ライバルである豪族達に対して、自らの血筋の優秀性と国の統治者である正当性を認識させるためと考えられています。

 

史料というのは常に自らが有利になる様に書かれているものです。つまり朝廷が書いた日本書紀も【客観性】があるのか常に疑いの目で研究されています。

 

 

こうした背景があり、最近の教科書では厩戸王(聖徳太子)と書かれていることが多く、いずれは聖徳太子と言う文言が消えるとも言われています。

 

わたしの時代ではしゃもじを持ったあのおじさんが、聖徳太子と習ったのでこのような記事の書き方をさせていただきました。

平成29年5月16日 更新