日本史が好きになる?歴史ブログ

このブログを見て、少しでも歴史を好きになるお手伝いができれば良いと思います。

スポンサードリンク

田沼意次はどのような政治改革で江戸幕府を立て直そうとしたのか?

f:id:miumaga:20170519210655j:plain

徳川吉宗が行った享保の改革で幕府の財政がやや上向きになりましたが、1732年享保の大飢饉百姓一揆や、打ちこわしなどが続き幕府は再び財政難に陥ることになります。  

 

1745年に吉宗が将軍を引退し、9代将軍家重の時代になりますが、家重は言語障害があり、周囲に自分の意志を伝えることができませんでした。

唯一、家重の側に仕えていた小姓の大岡忠光だけが意思疎通ができたと言われていました。そのため、初めは米300俵の禄でしたが、若年寄りを経て側用人にすすみ、さらには武蔵国岩槻藩主2万石までに出世しました。 しかし、大岡忠光自身積極的に政治を主導するような性格ではありませんでした。    

 

ここでメキメキと頭角を現すのが、9代将軍家重と10代将軍家治の時期に老中だった田沼意次です。

田沼意次ははじめ家重の小姓でしたが、1758年に大名になって10代将軍家治の側用人へとすすみ、1772年には老中になりました。 1758年から老中を退任する1786年までの約30年間を「田沼時代」と呼ばれます。  

 

吉宗に比べると地味な印象がありますが、幕府の権力を強くして国家の仕組みを整えなおそうとする政策は、吉宗の享保の改革に引き続きこの時期もありました。

 

例えば、政治を行うときはあらかじめ予算を決めてこれを守るようにするということなどは享保の改革で整えられた官僚制度を発展させたものです。

スポンサードリンク

 

田沼意次の政策は、大きく分けて3つの政策があります。

  1. 貨幣統合
  2. 公共事業 
 

重商主義政策

株仲間を奨励し、商工業者の株仲間に営業権を公認する見返りに、冥加金を年間100両もらうというもので、商業を重んじるという考え方でした。
当時の幕府の収入と言えば「年貢」。つまり「お米」でした。しかし、米価の下落や基金による高騰や一揆などでそれらも限界を迎えていました。そこで、田沼意次商人からもきっちり収入を受け取ろうと考えたのです。
 
当然、商人たちからは不満の声も上がりますが、そういった声に対しては、株仲間という制度取り入れ対処しました。
株仲間とは、お酒や醤油など同じものを売る商人たちが集まって作る組合のようなもので、その株仲間から冥加金を受け取ります。

その冥加金を納めた株仲間には商売に有利なように独占権を与え、株仲間に加入していない人には商売を禁止するという仕組みです。しかし、この制度には、賄賂が多発していたという側面があったと言われています。役人に少しでも多めにお金を渡し、商売に有利な条件を付けてもらいたいという思いがあったためです。
 
 

貨幣統合

明和五匁銀・南鐐二朱銀の発行を行い、国内の東は「金」、西は「銀」と違う通貨であったものを統合しました。
 
統合方法は
 
  • 明和五匁銀銀60匁⇒金1両
  • 南鐐二朱銀8枚⇒小判1両
 
と交換可能とした。
 
 

公共事業

最後の公共事業は今の千葉県にある印旛沼の陸地化や、北海道の蝦夷地区の開発も打ち出しますが、天候不順による、暴風雨や、河川の氾濫により実行に移すことが出来ませんでした。
 
江戸幕府い積極的に尽力したこの田沼意次の時代は、不幸なことに、天災が度重なっていき、1782年には全国的に凶作に陥ったり、震災被害、浅間山の噴火等の被害に見舞われました。
 
 
 
商人の力を利用する意次の経済政策は農業を基本と考える保守派から批判を受けました。また、先ほども書いた通り役人に対して賄賂を贈る風潮が広まり、庶民からも批判が出始めました。
 
さらに天明飢饉が起こり飢えと疫病で死者は13万人に及びます。田沼自身も1784年に子の意知が江戸城内で切り付けられ殺されるという事件も起きたことが、影響し、失脚の道を辿っていくこととなります。