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なぜ聖武天皇は大仏を建立しようと考えたのか?

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日光東照宮に並び、人気の観光スポットになっている奈良県東大寺はあの有名な大仏様がいる寺としても学生から年配の人まで毎年たくさんの人が訪れます。

今から1300年くらい前に、奈良の地で壮大な国家プロジェクトが始動します。

 

それは【大仏の建立】です。

 

743年聖武天皇が大仏制作の命令を発してから752年まで約10年かけた、この時代最大の国家プロジェクトでした。

 

今日は、なぜ聖武天皇は巨大な大仏を作ったのか?を考えていきたいと思います。

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教科書の記述では、聖武天皇奈良時代に大仏を造立したのは【相次ぐ飢饉や疫病、乱による社会不安が増大していたからである】となっています。

ザックリ書くとその通りなのですが、一つ一つの社会的背景をひも解いていくと、様々な事が交錯していることが分かります。

 

まずは、奈良時代の流れを710年から説明していきましょう。

 

710年にそれまでの藤原京から都が平城京に遷都されます。

 

大仏の制作を始めた聖武天皇724年に即位します。

この頃の日本は、東北で蝦夷による反乱が度々起こり、701年大宝律令を制定して以来、律令制による国家運営が可能か模索していた時期でもありました。

チョット先になりますが、坂上田村麻呂征夷大将軍になったのもこの時代の事です。

 

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この頃、政治の中枢にいた藤原武智麻呂・房前・宇合・麻呂の兄弟が、当時猛威を振るっていた疫病(天然痘)により死去してしまいます。そのほかにも、飢饉や大地震などが起こり被害が出ました。こうした社会不安を取り除き、国の安定を図りたいと言う願いが大仏作成の背景になったと言われています。

 

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また、当時の民衆は租・庸・調の税制度などで大変苦しい生活をしていました。

 

「かまどには火気吹き立てず 甑には蜘蛛の巣かきて 飯炊くことも忘れてしもと取る 里長が声は寝屋処まで来立ち呼ばひぬ かくばかりすべなきものか世の中の道」
                   引用元:『貧窮問答歌』より


現代語訳にすると、

「かまどには火の気が無くて 甑には蜘蛛の巣がかかり ご飯を炊くことも忘れてしまった。ムチを持つ里長の(税を納めろという)声が寝所まで聞こえてくる 世の中の道はこれほどつらいものなのか」

 

この文章から、庶民の生活の苦しさが伝わってきます。

 

では、当時の税制度を少しおさらいしていきましょう。

 

奈良時代の税制度>

  • 租:収穫した稲の約3%を納める
  • 庸:都において10日働くor布を2丈6尺納める
  • 調:各地方の特産物を納める
  • 雑徭:年間最大60日土木工事などの雑用で働く
  • 兵役:21~60歳のうち3分の1が兵につく

 

この中で民衆が苦しめられた項目として、赤字で書いた兵役があげられます。

朝廷は、戦える兵士を集めなければいけません。兵を集めても戦えなければ意味がありませんので、体力のある男性を自然に選びます。しかし、農業作業で最も必要とするのは、若い男性の力です。働き盛りの若い男性が兵役に行ってしまうことによって、農作業がままならないのです。

 

その結果、税が払えず土地を捨て逃げてしまう人が出てきたのです。

 

こうした背景で、民衆の暮らしは楽ではなかったのです。

 

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繰り返し行った遷都の影響

奈良時代は官僚社会だったので、民衆が苦しい生活をしている一方で、貴族階級の人はいい暮らしをしていました。民衆が税を払えないほど困窮しているのに対し、最高位の役人は集めた税を分配して巨額の富を形成していました。

この構図は、現代社会でも同じですが、過度の経済格差は社会不安を引き起こします。

逃亡者や浮浪者が多くなれば、略奪や強奪が起こり治安悪化につながります。

 

こうして740年聖武天皇人事への怒りから大宰府藤原広嗣の乱おこります。

この乱は、聖武天皇へのクーデター的なものではなく、人事への抗議的意味合いが強いとされています。天然痘で藤原4兄弟が亡くなり、大宰府での藤原広嗣の反乱と言う政治不安に聖武天皇は心機一転、都を変えます。

 

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山背国恭仁京に始まり→摂津国難波宮近江国紫香楽宮

と遷都を繰り返しました。

 

この遷都と並行して、情勢不安に対する具体的な取り組みを始めます。

 

741年国分寺建立の詔を出し、国ごとに国分寺国分尼寺の建立をするよう発令します。このように、大仏制作に先駆けて仏教を広めようとしましたが、国分寺を作り遷都を行っているだけでは、社会情勢が改善されることはありませんでした。

 

そこで聖武天皇が題した結論が、743年東大寺盧舎那仏と言う大仏を建立する命を出します。


聖武天皇の思いは、

『民衆全員が、仏に見守られていると目に見えて実感できれば、2度と社会の乱れが起こらず平穏に暮らせるのではないか※』と考えたそうです。

※諸説あります

 

お隣の中国では、すでにこのような大仏が作られていたそうですが、聖武天皇は世界初の黄金の大仏にこだわったそうです。その理由として、日本全国に仏の尊い光が届くようにしたかったそうです。

 

こうして、10年かけて752年大仏開眼供養を迎えることになります。

しかし、開眼供養時点では東大寺大仏殿は完成していたそうですが、肝心の大仏様は完成していなかったと言われています。金メッキを施し全体が完成するのは、開眼供養から20年近くたってからでした。

 

そして、聖武天皇756年に病死しました。

諸説ありますが、その死因が大仏制作に大きく関係していると言われています。

それは、水銀中毒です。大仏の金メッキ加工は、金を金を鍍金するために水銀に金を溶かし込んでアマルガムと言う物質を作りこれを大仏の表面に塗ります。

その工事過程で水銀が蒸発するので、水銀中毒になりやすく、実際に多くの作業者が命を落としているそうです。聖武天皇は自ら大仏作成の工程を見るために何度も足を運んでいたそうです。そのため、聖武天皇も水銀中毒で命を落としたのではないかと言われています。

 

民衆のために、大仏作成を決断した聖武天皇でしたが、その大仏が原因で命を落としたかもしれないのは悲しいことです。しかし、1200年以上たった今も聖武天皇が平和を願って作った大仏は今も私たちを見守っています。

 

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