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蒙古襲来【元寇】で元を退けた武闘派の執権北条時宗

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1274年と1281年、当時大陸を支配してたモンゴル帝国が2度にわたり日本を進攻してきました。私たちはこの歴史的出来事を元寇や蒙古襲来と習いました。

 

1274年は、鎌倉時代で北条氏による執権政治が確立された頃です。当時の執権は8代目北条時宗で、元寇による元の進攻を食い止めたことで知られています。

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北条時宗は、1251年に相模国鎌倉で生まれました。

父は北条時頼で、腹違いの兄には後の二月騒動で対立した時輔がいました。正室との間に生まれた時宗は、幼いころから後継者として育てられ、7歳にで元服した時には、当時の皇族将軍の宗尊親王から一文字賜り、時宗と名乗りました。

 

 

1260年時宗は、将軍及びに御所を守る役職に任ぜられて、その翌年には、泰盛の異母妹の堀内殿を妻にするなど、後継者としての地位を築き上げていきます。

 

1264年、14歳になった時宗7代執権を補佐する役職に就任して、その2年後には幕府転覆の疑いで、宗尊親王を将軍の地位から下ろし、京都へと追放します。その2年後の1268年の正月に、時宗の運命のターニングポイントになる、モンゴル帝国からの通商を求める使節大宰府に訪れます。

 

同じ年の3月には、執権職を引き継いでわずか18歳で8代執権となった時宗は、安達泰盛平頼綱の有力御家人の補佐を受けて対外政策に当たります。元の国書を始め朝廷が返信の書状を作成する案や、高麗の軍事組織・三別抄からの援軍要請を無視し、鎌倉幕府は総力を挙げて不服従の構えを見せます。

 

元の要求を退けたのには、時宗が師事した僧・蘭渓道隆や無学祖元らが元と敵対する南宋の出身であった事や、日本を訪れる朝鮮や中国の人々から各地の受けた惨劇の情報を得たと言う説があります。

 

実際に華北地方のほとんどがモンゴル帝国の手に落ちており、かつては徹底交戦を見せていた高麗にもフビライの娘婿である忠烈王を中心とした親元派の政権が樹立しており、日宋討伐にも協力的な空気が大陸や朝鮮半島に流れていました。

 

時宗と家臣団が元の国書を無視したのにはこうした国際情勢があったのです。

 

それと同時に1272年には、六波羅探題で勤務していた異母兄の時輔と評定衆で一族出身の時章と教時を暗殺し、1274年には【立正安国論】を書いた日蓮佐渡に流すなど、北条得宗家の権力を強化する政策を次々に打ちます。

 

同じ年に元軍が襲来しますが(文永の役)御家人たちの活躍で追い返します。

その翌年には、降伏勧告のために来日した元の使節団を処刑もします。

5年後の1279年に再び来日した使節団も斬首して、時宗は元軍との徹底抗戦の構えを取ります。この時に、異国警固番役の拡充で元軍の再襲来に備えつつ、高麗への逆侵攻の計画を立てますが、軍事費の問題でそれはかないませんでした。

 

また、後嵯峨天皇の遺言で時宗と幕府が治天の君を決める裁定に介入するなど、より強力に統一された体制を時宗は確立しました。

 

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1281年に再び元軍が襲来し、時宗は自らの名で作戦指示を出して、御家人に指揮をまかせます。元・高麗の連合軍は、石垣で防衛体制を整えた武士団の反撃に押され、神風と呼ばれる台風にも助けられ、連合軍を追い払います。

 

 

元・高麗の連合軍を追い払い、国の危機を救った時宗ですが、多くの課題が残されていました。

 

今回の戦は、国外からの防衛戦だったため、恩賞の土地が足りなくなり、異国の襲来に備えた国防強化にお金を使いすぎ財政難に陥ったのです。やがてそれが原因で鎌倉幕府が滅ぶ要因ともなるのですが、2回目の蒙古襲来から3年後の1284年に34歳という若さでこの世を去りました。

 

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その後、幕府は生活に困窮した御家人を救おうと、9代執権北条貞時による【永仁の徳政令】を出しますが、その場しのぎにしかならず、かえって御家人を苦しめる結果になり幕府への不満が徐々に高まっていきます。

 

こうした中で、後醍醐天皇が幕府の衰退に付け入り、鎌倉幕府は滅亡へと進んでいくことになります。

 

 

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