日本史が好きになる?歴史ブログ

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室町時代を将軍と共に流れを追っていく

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室町時代は、室町幕府滅亡後に後醍醐天皇による建武の新政に反発した足利尊氏が京都で開いた武家政権の事を指します。名前の由来は、三代目将軍足利義満が創設した花の御所(室町殿)から来ています。

 

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1338年~1573年に渡る約240年の長い時代だったが、応仁の乱以降は実質、将軍の権威はすでになく、各地の守護大名管領による実質支配がされています。

最終的に、1573年に15代将軍足利義昭織田信長が追放したことで、事実上崩壊とされています。

 

この記事では、15人(16人)の将軍を紹介しながら、室町時代の流れを追っていくことにします。

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室町幕府の歴代将軍

初代:足利尊氏 1338~1358

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当初は、後醍醐天皇の挙兵を鎮圧するために、鎌倉幕府の鎮圧軍を率いていたが、幕府への離反を宣言後、六波羅探題を滅ぼし鎌倉幕府を滅亡させます。

幕府滅亡の第一功労者として後醍醐天皇より評されるが、天皇による独裁政治である建武の新政に反発して、新たな武家政権樹立に動きます。以降、後醍醐天皇足利尊氏による対立が激化し、尊氏が擁立した天皇後醍醐天皇の2人の天皇がいる、南北朝時代に突入します。

 

幕府成立後は、弟義直と二頭体制を敷こうとしますが対立することになり、義直は政務から身を引くことになります。尊氏が没するまで、南北朝との争いや守護大名たちとの争いで、戦いの人生だったようです。

 

 

2代:義詮(よしあきら)1358~1367

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足利氏の内紛と南朝との争いが、尊氏の時代より続いており、中々政権は安定をしなかったようです。室町季顕から「花亭」を買い受け別邸とした。のちに「花亭」は足利家より崇光上皇に献上され仙洞御所となりましたが、再び義満の時代に譲り受けて花の御所になります。

 

 

3代:足利義満(よしみつ)1368~1394

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南北朝の統一を果たし、幕府権力を確立した功労者。

明との勘合貿易を行い、室町時代の政治・経済・文化の最盛期を迎え、【北山文化】と呼ばれます。

 

義満が邸宅を北小路室町に移したことにより、『室町殿』と呼ばれるようになりました。この呼び名が後に足利将軍をさす呼び名になり、政庁を兼ねた将軍邸は後に『室町幕府』呼ばれるようになりました。

 

 

4代:足利義持(よしもち)1394~1423

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将軍在任期間が28年で、室町幕府中最長の在任期間でした。

9歳で父義満より将軍職を譲られますが、義満は太政大臣となって実権を握っていたので、お飾りの将軍でした。そのため、父子の関係は非常に険悪でした。

義満の死後、子である義量に将軍職を譲りますが、在任わずか2年で死去してしまいます。その後、また将軍代行として政務に戻りました。

 

 

5代:足利義量(よしかず)1423~1425

義持から将軍職を譲られるが、わずか2年で死去。

その後は、父義持が代行として政務を引き継ぎ、義持死後は6代将軍義教に引き継がれます。

 

 

6代:足利義教(よしのり)1429~1441

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3代将軍足利義満の3男で、母は側室の藤原慶子、4代将軍足利義持とは、同母弟。

義持が後継者を任命せず、くじ引きにより将軍となったため、くじ引き将軍と呼ばれています。永享の乱を引き起こすが、衰退していた将軍の権威を取り戻し、中央集権化を再度確立した。

最期は、赤松満祐による嘉吉の乱で殺され、この将軍の暗殺劇により幕府の権威を衰退させることに…

 

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7代:足利義勝 (よしかつ)1442- 1443

6代将軍足利義教の嫡男。

嘉吉の乱により父が暗殺されたため、わずか9歳で将軍職を継ぐもその8か月後に没。

死因は諸説あるが、赤痢による病死が有力視されている。

 

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8代:足利義政(よしまさ)1449 - 1473

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父は6代将軍・足利義教で母は日野重子

7代将軍・足利義勝の同母弟にあたる。

文化面では大きな功績を残し、庭師の善阿弥狩野派の絵師狩野正信らを召抱え、東山の地に東山殿を築き、現在は慈照寺となり、銀閣、東求堂が現在に残る。

この時代の文化は、銀閣に代表されるわび・さびに重きをおいた【東山文化】と呼ばれています。

 

政治には無関心で、晩年は将軍後継問題から応仁の乱を引き起こしてしまう。

 

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9代:足利義尚(よしひさ)1473- 1489

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父は8代将軍義政で、応仁の乱のなか、文明5年に義政から将軍職を譲られ、9代将軍に就任する。

一条兼良から政道や和歌などを学ぶなど、文化人としての評価は高く、和歌に熱心で、14歳頃から盛んに歌会を主催した。応仁の乱後、下克上の風潮によって幕府の権威は大きく衰退してしまったが、義尚は将軍権力の確立に努めました。

六角征伐などの積極的な幕政改革を行なったが、在陣していた近江国の陣中にて病死した。

 

 

10代:足利義材 (義稙)1490 - 1493

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父は室町幕府第8代将軍・足利義政の弟で、一時期将軍として擬せられた足利義視と同一人物。

 

伯父義政の死後に第10代将軍に就任する。その後、当時の幕府でもっとも有力な大名である細川政元と対立して将軍職を廃され幽閉されたが、脱出して越中国へ逃れ、諸大名の軍事力を動員して京都回復・将軍復職をめざして各地で逃亡生活を送る事に…

 

 

11代:足利義澄(よしずみ)1495-1508

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父は8代将軍・足利義政の異母兄である堀越公方足利政知

明応2年(1493年)に従弟の10代将軍・足利義稙細川政元によって追放されると、11代将軍として擁立された。しかし、永正5年(1508年)に前将軍・義稙を擁立する大内義興が上洛の軍を起こしたため、近江国へ逃れて将軍職を廃され、復帰できないまま死去した。

 

 

※10代(12代):足利義稙(よしたね)1508 - 1522

10代将軍・足利義材と同一人物。

逃亡生活を続けていたが、周防国大内義興の支援を得て、その軍事力に頼って京都を占領して将軍職に復帰する。

2回目の将軍在職中の永正10年(1513年)に、義稙(よしたね)と改名。

しかし、大内義興が帰国後、今度は当時管領であった細川高国(政元の養子)と対立の末、京都を出奔して再び将軍職を奪われ、最後は逃亡先の阿波国で死去した。

 

 

12代:足利義晴(よしはる) 1521- 1546

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側近集団を内談衆として再編成して政権中枢に置くことで、自己の親裁権の強化を図ります。

足利義満以来続けてきた日野家との婚姻関係に代えて、近衛家出身の正室を迎えて朝廷との関係強化を図るなど、将軍権威の回復に努めたが、細川氏の内紛をきっかけにした大規模な争乱によって挫折することになった。

 

 

13代:足利義輝(よしてる)1546- 1565

第12代将軍・足利義晴の嫡男として東山南禅寺で生まれる。

義輝は幕府権力と将軍権威の復活を目指し、諸国の戦国大名との修好に尽力している。

 

1548年、伊達晴宗と稙宗、1558年、武田晴信長尾景虎島津貴久と大友義鎮、毛利元就尼子晴久は1560年、毛利元就大友宗麟1563年、上杉輝虎長尾景虎改め)と北条氏政武田晴信は1564年など、大名同士の抗争の調停を頻繁に行い、将軍の威信を知らしめた。

 

剣の名手【塚原卜伝】の弟子として剣術の指南を受けていて、剣術に長けていたとされています。しかし、三好長慶らによる禄の変で殺害される。

 

 

14代:足利義栄(よしひで)1568(2月- 9月)

永禄の変で従兄の13代将軍義輝が三好三人衆松永久秀に殺害されると、三好三人衆や久秀らによって父・義冬(義維)の代わりに、将軍候補として擁立された。

歴代将軍の中で、唯一本拠地のある京都に一度も足を踏み入れずに終わっており、主体性が全くなく、三好三人衆松永久秀による完全な傀儡将軍だった。そのため、室町将軍として数えられない事の方が多い…

 

 

15代:足利義昭(よしあき)1568年- 1588

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父は室町幕府第12代将軍・足利義晴で、母は近衛尚通の娘・慶寿院。

第13代将軍・足利義輝とは同母兄。

 

 

兄義輝と母慶寿院が松永久秀らに暗殺されると、幕臣の援助を受けて奈良から脱出し、還俗。そして、美濃国織田信長に擁されて上洛し、将軍に就任します。

その信長との中が険悪にあり、京都から追放されて備後国に下向し長らく在国したため、一般的には1573年に室町幕府は滅亡したとされています。

 

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豊臣政権が完全に確立するまでは、将軍職はそのままであった。政権確立後は将軍職を辞し、豊臣秀吉から、山城槙島1万石の大名として認められ、前将軍だった貴人として豊臣政権下で遇され余生を送りました。

 

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2018年6月26日追記

先日、10代将軍の件でご指摘があったので追記したいと思います。

以前、10代将軍足利義視と書かれていましたが、私の間違いでした。こちらは修正をしました。

 

また、将軍は15代なのか?16代なのか?についてもご指摘がありました。

一般的には足利将軍は、15代で知られていますが、足利義材と義稙が同一人物で、それを数に数えるかで15代か16代かに意見が別れるところでもあります。

天皇家でもこのような事があり、その場合は重祚と呼び二代と数えます。

孝謙天皇称徳天皇は同一人物でそれぞれ46代、48代天皇とされています。この考え方に準じて考えれば、室町幕府の将軍は、16代15人となります。

しかしながら、一般的には室町将軍は15代とされているので、表記も分かりやすく15代で書き直しさせていただきました。義稙については※をつけておきました。

時代的には、義澄と義晴の間の時代となります。

 

ご指摘ありがとうございました。