日本史が好きになる?歴史ブログ

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鎖国時代、開国思想を説いていたパイオニアがいた?

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開国と言えばペリーの外交圧力に屈して・・・というイメージもありますが、江戸時代・鎖国体制下の日本国内においても開国の必要を訴えていた人物がいたそうです。

 

それが本多利明という人物。

先見の明のあったこの『本多利明』という人物が何をしたかについて迫っていきたいと思います。

 

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本多利明は1743年に越後国蒲原郡で生まれ江戸に出た後、和算天文学、暦学、オランダ航海術などを学びました。1766年24歳の時に算学・天文学の私塾を江戸で開きその後は生涯に渡って教育に当たり、いくつか著書も出したそうです。

 

 

著書:『経世秘策』『西域物語』『長器論』『経世総論』など

 

 

そんな最中、1787年に東北への旅を決行。天明の飢饉で苦しんでいる惨状を目の当たりにしたことで利明の関心は経世論へと傾いていきました。

 

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北方からの脅威(ロシアとの関係)

 

  • 日本を欧州化(植民地政策の必要性を訴える、仮名をアルファベットに変更など)
  • 蝦夷の開発とカムチャッカへの進出
  • ロシアと国交を結び、交易をはかること

 

で乗り切ろうという思想も持っていました。若干…というよりかなりの過激派です。

 

 

本多利明が活躍した文化・文政の時代1800年代前半)に海外との交流を重視した考え方を持っていたため幕府で重用されることはありませんでしたが、1809年に一年ほど加賀藩に出仕しています。 

 

 

 

加賀藩と言えば『加賀100万石』とも言われている非常に裕福な藩です。大名の格を示すと言っても良い『表高(石高)』自体も元々非常に高かったのですが、実質、藩のGDPに当たると言われている『内高』も加賀藩はそれなりの水準にあったようです。

  

本多利明が活躍した文化文政期は、江戸の町人文化が栄えた時期。その一方で、幕府や諸藩は財政難にあえぎ幕藩体制の矛盾が一層深刻化したと共に外国船が頻繁に訪れるようになり外圧が徐々に高まっていった時代でもあります。加賀藩も例に漏れず財政難に陥っていました。

 

彼は

日本は海国であって内陸部の面積が限られている

(中略)

日本海側の諸藩は、大陸側の諸国と交流を図り、まず物、人、文化、やがて政治というように段階的に交流を拡大すべき

(後略) 

引用:日本史に見る経済改革―歴史教科書には乗らない日本人の知恵ー

 

が持論でした。勿論、当時の日本にも蝦夷との交流を図っていた海の商人たちがいましたから引用部分の前半は本多利明特有の考え方ではありませんでしたが、海外交流を藩を上げて政治的にやってやろうという点が他者と違いました。

 

なぜそんな提案ができたか?というと、当時の政治は『儒教』を基礎としたうえで『仁の政治』を説いていたのに対し、本多利明は『現実重視』の姿勢を基本に『仁の政治』を行うと説いていました。そもそもの基本姿勢が違った、ということです。

 

 

どういうことか?と言いますと・・・ 

日本における、特に江戸時代においての儒教は、幕府による封建社会のための思想としても用いられていました。

 

江戸時代に儒教が重宝された理由は

 

齊景公問政於孔子孔子對曰、君君。臣臣、父父、子子、公曰、善哉、信如君不君、臣不臣、父不父、子不子、雖有粟、吾豈得而食諸。

 

の部分を見るとよく分かります。(幕府絡みの部分のみを見てみると)君主は君主、臣下は臣下の立場で本分を全うするのが重要といった意味です。江戸時代の前は戦国時代で下剋上も当前だったことを考えると、この思想が重視されたのは当然かもしれません。

 

その上で『仁の政治』を行う

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というのが大半の学者の意見だったようです。幕府に逆らってまで…ってことですね。

 

 

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そんな背景があったうえで本多利明日本海の重要性を訴えます。日本海交流を図るべき(貿易振興による富国策、重商主義という本多利明の提言は財政難の加賀藩にとっては魅力的なものでしたが、実行するには危険すぎるものでもありました。

  

それでも背に腹は代えられません。加賀藩前田家の家老・奥村栄実は、普段から昵懇にしていた金沢の海商・銭屋五兵衛に幕府には内密にした密輸の計画を打ち明けます。

 

結果、五兵衛は蝦夷地や択捉島でロシアと、鹿児島の南方諸島ではイギリスと、果ては北米やオーストラリアのタスマニア島への渡航説が出るほど広域で貿易を行い、『加賀の銭屋か銭屋の加賀か』とまで揶揄されるほど実績を上げました。

 

加賀藩もその恩恵にあずかることになりますが、奥村栄実と銭屋ら大商人との癒着が指摘されているなど敵も多く反対派も多くいたため改革は中途半端に終わります。

 

※奥村栄実は特定の商人のみを優遇していて他の商人には抑制的だったとも言われています。どちらかと言えば農業に重きを置いている傾向にあったようです。

 

 

そんな奥村の死後、政権を握ったのは黒羽織党と呼ばれる党派。前政権で大商人との癒着を指摘していたのも彼らです。銭屋五兵衛は奥村の死後は微妙な立場に陥ったこと、幕府に密輸の件が露見することを恐れられて証拠不十分の罪を着せられ獄死。300万両もの莫大な財産を加賀藩に没収されています。

 

 

※江戸時代中期の米価換算で1両=4~6万円(日本銀行金融研究所貨幣博物館 - お金の歴史に関するFAQ(回答))。1200億円~1800億円を没収したことになります。銭屋が死去したのが幕末寸前なので4万円換算の方が近いと思われます。銭屋の死亡時期から約50年前の1794年、幕府の金歳入が約100万両(寛政の改革について|社会の部屋|学習教材の部屋)なので相当な臨時収入になったことが分かります。

 

 

黒羽織党の面々の多くは上田作之丞という人物が開いた私塾・拠遊館出身者です。

この上田作之丞、実を言うと本多利明の教え子。重商主義的な国産増殖・交易論の考え方に多大な影響を受けていたそうで藩営での産業を推奨しており、黒羽織党のメンバーはその上田作之丞の考え方を支持していました。

 

とは言え、結局は藩内一致で改革できるような状況ではなかったので、やはり中途半端で終わっています。

 

が、黒羽織党が政権についた頃には既に幕末に突入していた時期。元々の石高の高さや銭屋五兵衛の財産を得たことなどが幸いしてか、それなりの内高にはなっていますが、もう少しやり方を間違えなければ薩長土肥に負けない程の藩になったのでは?と思います。まぁ、加賀藩と幕府の関係を考えると幕末に加賀藩の存在感がないのも仕方ない気もしますが…

 

 

そんなわけで本多利明は時代を先取りしすぎて中々受け入れられていなかったものの、彼の思想を一部取り入れた上で加賀藩は藩政を執り行われてきたようです。実際に彼の考え方が政治に取り入れられたのは明治維新後になってから。

 

生きる時代が違えばもっと本多利明も注目されていたのでしょうが、18世紀の時点で海外にも精通した本多利明のような人物がいたからこそ明治維新の成功に繋がっていったのかもしれませんね。

 

 

 

近世日本の開発経済論と国際化構想: 本多利明の経済政策思想