日本史が好きになる?歴史ブログ

このブログを見て、少しでも歴史を好きになるお手伝いができれば良いと思います。

戦国時代

明智光秀は徳川家康の参謀・南光坊天海だった!?

1582年6月2日、明智光秀は本能寺にて主君の織田信長を討ちました。 しかし、その11日後の6月13日に山崎の合戦で羽柴秀吉に敗北し、坂本城へ落ちの伸びる途中、農民達の落ち武者狩りに会い命を落とします。 ところが、その死後から明智光秀生存伝説がささやか…

豊臣秀頼出生の秘密と秀吉の思い

豊臣秀吉は、14人の側室を抱えていましたが子供ができませんでした。 しかし、淀殿との間だけ2人の子供が生まれました。生物学的に考えると、淀殿だけに子供が生まれると言うことはありえないことでした。 秀吉の側室の一人、京極竜子には2男1女が居ました…

毛利元就の三本の矢は作り話だった!?

毛利元就と言えば【三本の矢】の有名ですが、この逸話は史実ではなく後世に作られた話でした。創作とはいえ、このような伝説が作られると言う事が、当時の毛利元就の存在がいかに大きなものだったかを示している証拠だと思います。 しかし、この逸話が全くの…

戦国時代の三大暗愚、大内義隆・今川氏真・細川政元

応仁の乱を発端に、約150年に及んだ戦国時代では、多くの戦国武将がいました。 戦国三傑と呼ばれる、織田信長・豊臣秀吉・徳川家康などはその飛び抜けた能力で、数々の偉業を成し遂げました。英雄もいれば、その逆の暗愚もまた存在しており、後世に名を残し…

豊臣秀吉も恐れた、名将・蒲生氏郷の商人育成

蒲生氏郷は、戦国時代の武将で『稀代の英雄』とも称され、豊臣秀吉が徳川家康よりも恐れた人物とも言われています。 天下人となった秀吉が【百万の兵を率いれば誰が一番強いか?】と家臣たちに聞いた時、多くの人が徳川家康や前田利家と答えたのに対し、秀吉…

どうして名門武田氏は滅亡したのか?

どうして名門武田氏は滅亡したのか? 武田信玄を輩出した清和源氏の流れをくむ武田氏が、信玄没後10年で滅亡したのは一体どうしてなのか?? 今日は、そんな武田氏が滅亡した理由について考えてみました。

桶狭間の戦いは奇襲攻撃ではなく新しい説が浮上した!?

以前、織田信長はどうして今川義元に勝つこができたのか?と言う記事を書かせてもらいました。 その記事では、桶狭間で休息している今川軍を少数の織田軍が背後の山から奇襲攻撃仕掛け、勝利したと書きました。 rekishi-note.hatenablog.com

戦国時代、最強軍師ランキング!

軍師と言えば、武将に仕えて戦略や戦術などを献言する参謀のイメージがありますが、このような軍師像は戦国中期に登場した新しい形のものでした。 それまでの軍師は、陰陽道などの占術に長けた【軍配者】であったと言います。出陣に際して吉凶を占い、日時や…

北条早雲が育てた小田原の城下町

下剋上と言えば『北条早雲』で、一介の素浪人から相模一帯を治めるまでにのし上がった、五代100年続いた【後北条】の祖として、戦国時代のきっかけを作ったとして余りにも有名な話です。 rekishi-note.hatenablog.com もう一人、下剋上の典型的な人物として…

織田信長による楽市楽座の目的とは?

1541年に土岐頼芸が斉藤道三に追放されて以来、美濃国は斉藤家が支配していました。 織田信長の父である信秀も1547年に美濃を攻めましたが、稲葉山城の鉄壁の守りの前に敗れています。和睦の際に、斉藤道三の娘・帰蝶と織田家嫡男・信長の婚姻が決定しました…

実はかなり有能だった有名戦国大名の息子たち

戦国時代に父があまりにも偉大過ぎて過小評価されている超有名な戦国武将の息子たちですが、実はかなり優秀な武将でした。 今回は、そんな父の陰で有能さがイマイチ評価されていない戦国大名の息子たちにスポットを当ててみたいと思います。

天下布武を目指した織田信長の軍事改革②【効果的な兵器の活用】

信長の軍事改革の第二弾は、合戦を冷静に分析し、戦況に応じた武器を投じた効果的な兵器の活用術を見てみたいと思います。

天下布武を目指した織田信長の軍事革命 【方面軍の創設】

織田信長は、他の戦国大名に先立ち最新兵器の鉄砲を大量に導入や方面軍の創設などの様々な軍事改革を行い、天下布武に邁進しました。 最新兵器の活用、独特な戦術や家臣の能力を最大限引き出した人材活用術を取り上げながら、織田信長軍団を紐解いていきます…

不利な状況から勝利を掴んだ戦国時代の名采配

戦国時代の多くの武将の見せ場はやはり合戦でした。全国各地、大なり小なり多くの合戦が各地であり、その数だけドラマがありました。 今日はその中から、不利な状況から見事な名采配で勝利を引き寄せた織田信長と北条氏康、豊臣秀吉の合戦を紹介していきます…

織田信長はどうして今川義元を桶狭間の合戦で討つことが出来たのか?

1560年、駿河の大名今川義元が上洛を目指すために、織田信長の領土である尾張への侵攻を始めます。 今川家は、室町幕府の守護大名から名門の家柄です。 駿河、遠江、三河の3ヶ国を治める義元に対し、信長は尾張一国を統一したばかりでした。この時点での兵…

戦国時代の大名と家臣との関係

応仁の乱以降、下剋上の風潮が高まっていき、守護大名の代わりに国を治めていた守護代や国人達が守護大名に代わり国を治めようと独立して戦国大名として成長していきました。 この時代、戦国大名たちが自分たちで作り上げた支配地を領国と呼び、その支配体制…

戦国大名の軍事力はどれくらい?

戦国時代の合戦と聞くと華々しく勇壮なものが多い。1560年の桶狭間の戦いでは、大軍率いる今川義元軍に対し織田信長は少ない兵でこれを撃破しました。 1575年の長篠の戦では、織田信長の鉄砲隊により、武田家のお家芸であった騎馬隊をせん滅させました。この…

信長は、天下布武の後天皇や朝廷をどうするつもりだったのか?

悠久の歴史を誇る天皇と朝廷にも改革の手を伸ばそうとしていた信長。 正親町天皇の退位勧告や朝廷からの三職就任の保留などから何らかの改革をしようと考えていたのかもしれません。もしかしたら旧権力に頼ることなく、信長自身が絶対的な神となり強力な秩序…

反信長勢力による【信長包囲網】 第3期 1575年~1582年

長年にわたり信長を苦しめてきた、朝倉・浅井が滅び、武田家も風前の灯火となりもはや敵なしと思われましたが、まだ大坂に本山をおく本願寺が残っていました。 本願寺は8世法主蓮如の頃に北陸へと勢力を伸ばしており、特に加賀では門徒持ちの国とし戦国大名…

反信長勢力による【信長包囲網】 第2期 1572年~1575年

浅井・朝倉家との和睦と延暦寺焼き討ちにより、第一次信長包囲網が終結しました。しかし、信長の困難はまだ終わりません。反信長勢力は勢力を維持したままで、そのほとんどは打倒信長の機会を狙っていました。 そんな中、信長への不満を募らせていたのが、15…

井伊家の生い立ちと女城主井伊直虎

井伊家はもともと遠江国引左郡井伊谷を支配する豪族でした。 応仁の乱後は、守護職の斯波義龍に属して、遠江を侵攻してきた駿河守護の今川家と対立していました。しかし、今川家が遠江の守護職を得ると、井伊家はその支配下に置かれます。 この時、今川家は…

反信長勢力による【信長包囲網】 第1期 1568年~1571年

織田信長は1567年【天下布武】のキャッチフレーズのもと足利義昭を奉じて上洛する事に成功します。しかし直後に反対勢力による抵抗を受けて窮地に立たされることになります。 1568年頃から1582年の本能寺の変までの10年以上にも及ぶ信長の天下布武への厳しい…

織田信長の天下布武は最初は小さい天下だった!?将軍追放との関係とは…

天下統一と聞くと一般的に全国を平定すると捉えますが、最近の研究では必ずしも 天下=全国ではないと言う考え方があるそうです。 そのため、信長が岐阜城を拠点とした頃に考えた『天下布武』が全国を武を持って治めると言う意味ではないと言うのです。 美濃…

織田信長の目指す天下布武とは?

文献や教科書などでよく見かける【天下布武】の主印判。天下布武と聞くと、武力を持って天下を制するイメージがしますが、本当のところはどうなんでしょうか? 今回は、織田信長のスローガンでもあった【天下布武】について考えていきます。

信長から秀吉・家康へ…兵農分離の目的と身分の確定

一般的に兵農分離は、豊臣秀吉が太閤検地、刀狩、人掃令を出して身分をはっきりさせた政策の事を書かれることが多いですが、その基本的な事は織田信長※が考え、秀吉が発展させて、江戸時代に徳川家康が完成をさせます。 信長以前までは、兵と農の身分に線引…

戦国時代の天才軍師、竹中半兵衛と黒田官兵衛の絆

戦国時代の天才軍師といえば、竹中半兵衛と黒田官兵衛の戦国二兵衛が有名です。 私がイメージする軍師像は、君主の側にいつもいて、戦などの戦術や作戦を練ったり、その君主が困った時の相談役というイメージがあります。 しかし、当時の信頼できる文章の中…

尾張守護大名斯波氏と守護代織田家の関係

以前、織田信長の記事を書いた時、織田と名前のつく人物がたくさん出てきて、誰が誰だかわからなくなったので今日は、織田家について調べましたので書いていきます。 織田氏はもともと、尾張の守護大名斯波(しば)氏の家臣の家柄です。 尾張守護斯波氏のも…

豊臣秀長、兄秀吉の補佐役に徹した生涯

太閤秀吉の弟にもかかわらず多くは語られていない人物、豊臣秀長。この人の果たした功績は大きく、握った権限も著しく強いものでした。 116万石の大大名となり、従二位権大納言の高位を賜り、天下の政にも深く関わった人物は織田信長・豊臣秀吉・徳川家康の…

織田信長はどうして居城を次々と変えていったのか?② 岐阜城~安土城 

稲葉山の戦いで宿敵斎藤家を討ち滅ぼした織田信長。ここからよいよ信長は天下統一へと加速していくことになります。 稲葉山城※陥落後、信長は小牧山から稲葉山への拠点移動を決断します。 そして、城と町の名前を【稲葉山】から【岐阜】と名づけました。 古…

織田信長はどうして居城を次々と変えていったのか?① 那古屋城~小牧山城

織田信長を調べていくと、居城を次々に変えていくことが分かります(当時の戦国大名たちは、本拠地をあまり変えることをしませんでした)。 この記事では、信長の戦略・領地展開を居城の移転という視点から見ていきます。 信長はこれまで、那古屋城 ⇒ 清須城…