日本史が好きになる?歴史ブログ

このブログを見て、少しでも歴史を好きになるお手伝いができれば良いと思います。

近代史

関東軍を通して見る第二次世界大戦

関東軍と言えば 張作霖爆殺事件 満州事変を独断で実行 ノモンハン事件 などが有名で、日中戦争の契機に繋がる事件に関わったことが知られています。 今回はそんな関東軍を通して見た第二次世界大戦について調べていきます(ちょっと長いので後々簡易板も上げ…

第二次世界大戦時の天皇・政府と軍の関係を見てみる

明治以降、日本は対外的な戦争を何度も経験しています。近代の歴史を調べていくと、何度も軍や軍の関係者が表舞台に立っているのが分かります。 近代の記事が多くなるにつれ、軍と政治の関係を書いておいた方が戦争関連の出来事について理解しやすいので置い…

第一次世界大戦による大戦景気と米騒動

明治以来日本では、輸入超過の貿易赤字国で、日露戦争後は国家財政も危機的状況が続いていました。 rekishi-note.hatenablog.com しかし、第一次世界大戦によって状況が一変します。 rekishi-note.hatenablog.com

第二次世界大戦までの流れ

日本史だけで見ても第二次世界大戦の全体像は掴めませんので、世界史視点・日本史視点どちらからでも分かるように表にまとめてみています。いずれサイトマップとしても利用できるようにしていく予定です。

権益強化を狙い日本も参戦した第一次世界大戦

第一次世界大戦を始める前に、1914年のサラエボ事件から1919年のベルサイユ条約までの年表を書いておきますので、こちらを参考しながら読んだ方が分かりやすいかもしれません。 年 出 来 事 1914年6月 サラエヴォ事件 オーストリアがセルビアに宣戦布告 ロシ…

大正政変と第一次護憲運動

明治政府への不満 明治後半の資本主義発展と共に労働問題が深刻化して行きます。 明治30年代初めに、鉄鋼や鉄道事業などで労働組合が作られ、労働争議が行われるようになった事から、政府は1900年(明治33)に労働者の団結を制限する治安警察法を公布します。 …

韓国併合と満州進出

日本の韓国支配 日本は日露戦争開戦直前の1904年に、韓国独立と領土保全の口実として日韓議定書を韓国政府と調印しました。そして、韓国の外交権を制限して、財政に対する日本の指導権を確保するために第一次日韓協約を締結します。 これは、韓国を保護国化…

日露戦争の負担による国民の不満

戦費負担に不満が爆発した国民 日露戦争に勝利しましたが、日本側も満身創痍で余裕の勝利とは行きませんでした。 その戦費の国民負担は甚大で、限界を超えていました。 一方ロシアでも、革命の機運が高まり国内の政治は危機的状態にありました。 ヨーロッパ…

世界が驚いた小国日本による日露戦争の勝利

朝鮮半島と満州をめぐりロシアとの緊張感が高まった日本でしたが、1903年から日露交渉が進められてきまいした。 交渉の中、日本国内ではロシアとの交戦論が強まり、近衛篤麿が対露同志会を組織して、ロシアに対する強固な外交を主張します。一方で、交戦論に…

アンガウル島の戦い

不死身と名高い舩坂弘氏を紹介する予定だったのですが・・・ 舩坂氏の所属する部隊が置かれた場所で「なぜ戦闘が行われていたのか?」「どんな戦いだったのか?」 人物伝をお話しする前に理解していた方がより伝わりやすいと考えましたので、今回は『アンガ…

ロシア帝国とのにらみ合い

日本はロシアの南下政策に備えて軍備拡張を進めてきました。それと同時に、中国・朝鮮への侵攻を進めていく事で列強と並んで帝国主義を形成していきます。 日清戦争後の三国干渉を経て政府は、対ロシア戦を想定して軍備拡張を中心とする戦後経営計画を立てて…

ロシア・フランス・ドイツによる三国干渉

日清戦争で勝利をした日本は、1895年に下関条約を締結し清国と講和をしました。 条約の内容は、清国は朝鮮を完全な独立国として認める事、遼東半島及び台湾・澎湖諸島を日本に譲る事、賠償金二億両(約3億1000万)を日本に支払うことを盛り込み、さらに、沙市…

朝鮮をめぐり日本と清が激突する日清戦争

日本は日朝修好条規の締結で朝鮮を開国させ、大陸進出の足掛かりを得ました。 rekishi-note.hatenablog.com 以降、朝鮮半島は二度にわたる日清代理戦争の舞台となります。

40年がかりの不平等条約の改正

不平等条約の改正交渉 江戸幕府が欧米諸国と結んだ不平等条約の領事裁判権撤廃と関税自主権の回復は、富国強兵を目指す明治政府の重要な外交課題となっていました。 rekishi-note.hatenablog.com

憲法作成と帝国議会の成立

ドイツを参考にした立憲君主制 1881年に政府が出した国会開設の詔と同時に憲法制定の準備にかかりました。 明治十四年の政変によって、天皇と政府に強い権限与える立憲君主制の方針を固めた政府は、1882年に伊藤博文らをヨーロッパに派遣をして憲法の調査に…

インフレ解消を目指した松方財政と近代日本型資本主義の始まり

インフレの解消を目指した松方財政 明治の始まりから頻発していた農民一揆や士族の反乱、自由民権運動の対応に追われていた政府は、早くも財政問題に直面します。

全国に波及した国会開設要求

政府の内紛をきっかけに明治十四年の政変 士族の権利を求めた自由民権運動は一時下火となっていましたが、国会開設を求める運動として再加熱して、地主などの地方の有力者や都市の商工業者も巻き込んで全国に拡大していきました。

豪農商を巻き込んだ国民運動『自由民権運動』

1874年1月に征韓論争で敗れて新政府から離れた板垣退助・後藤象二郎・江藤新平によって建白書が提出されます。 rekishi-note.hatenablog.com

日本最後の内乱、西南戦争と西郷隆盛

明治政府発足後、近代化政策を推し進めた結果、旧武士階級である士族たちの特権が次々と奪われていきました。 また、戊辰戦争で新政府軍に加わってた士族たちの中にも、自分たちの主張が新政府の政策に反映されなかったことから、政府に対する不満が燻ってい…

大航海時代のキッカケになった出来事

タイトルは思いっきり世界史ですが、18~19世紀に外国船が頻繁にやってきたことに繋がる出来事でもあります。その度重なる外国船来航により水戸藩から尊王攘夷思想が生まれ、薩長へと伝わり明治維新に繋がったことを考えると、そのキッカケになった大航…

政府内を引き裂いた征韓論争

1873年(明治6年)に、外務省から朝鮮問題についての議案が出されました。その内容が、朝鮮の【非礼】を正すための軍事行動を起こすと言うものでした。 この発議がキッカケで、新政府が真っ二つに割れる【征韓論争】が始まります。 そもそも朝鮮の非礼から始ま…

岩倉使節団による世界一周

1871年に岩倉具視を団長とする大使節団が結成されました。 使節団に参加したのは、大久保利通、木戸孝允、伊藤博文の政権有力者で、使節46名、随員18名、留学生43名の総勢107名の大所帯でした。 藩閥出身の有力者を大使や副使に据えて、国際事情に精通した旧…

活発する征韓論と日本の対外進出

明治初期の日本を取り巻く世界情勢は、植民地獲得を進める帝国主義時代に突入していました。 このような状況下で明治政府は、欧米諸国と同じようにアジア諸国に対して高圧的な外交政策を行っていきます。

明治政府主導による産業の近代化

諸外国と肩を並べることを目標に明治政府は、富国強兵を推進してくと同時に、国内の産業育成政策を政府主導で推し進めます。 日本史ではこれを殖産興業と呼ばれています。

封建的な身分制度の廃止、四民平等と富国強兵策

明治政府は、国家の中央集権化と近代化を推し進めていましたが、同時に封建的な身分制度の廃止も進めていきました。 そこで政府は、1869年の版籍奉還後に、封建的な主従関係を解消することを目的として、公家及び大名達を全て華族とし、武士は士族として2つ…

封建制度から中央集権国家へ新明治政府誕生

1867年の王政復古の大号令によって新明治政府が誕生しました。 樹立した新政府の陣容は、土佐・越前・尾張などの公議政体派の諸侯も交えた雄藩連合的な人選でした。しかし、戊辰戦争で武力討幕派の薩長軍が勝利したことによって、政局内で主導権を握るように…

日本史最大の内乱、戊辰戦争終結による新政府の全国支配の確立

1868年1月3日に京都郊外の鳥羽・伏見において薩長の藩兵で構成された新政府軍と旧幕府軍が戦闘状態に入ります。 この戦いが鳥羽・伏見の戦いです。 数では旧幕府軍が多かったのですが、指揮系統の不備が原因で敗退します。 さらに翌日には、薩長軍が朝廷より…

王政復古の大号令による幕府の廃止と公議政体派と討幕派の攻防

大政奉還によって実質政権を返上した徳川慶喜は、薩摩・長州藩の武力討幕派に対して先手を打ち政権掌握の機会をうかがっていました。 rekishi-note.hatenablog.com 現在の朝廷では政権を運営できるだけの能力がないと踏んでいたので、大政奉還後も旧徳川幕府…

長州討伐失敗の原因ともなった一揆や打ちこわし

幕末期の幕府を動揺させたのは、外国勢や諸藩の尊攘・討幕運動だけではなく、全国各地で発生した民衆運動『世直し一揆』もありました。 このような世直し一揆の発生は、民衆による徳川幕府への不信任表明の表れで、結果として幕府滅亡へのカンフル剤となりま…

大政奉還による幕府の思惑

長州討伐の失敗と将軍の死 1866年の第二次長州討伐で長州藩に返り討ちに合い惨敗をしてしまった幕府軍は、その後まもなくして、14代将軍・家茂が戦陣で病没します。敗北を悟った幕府側は、長州藩との停戦を決定します。 この戦いでの敗北で、権威も落ちると…