日本史が好きになる?歴史ブログ

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古墳時代から飛鳥時代にかけての豪族の対立

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古墳時代から飛鳥時代にかけて、豪族たちが大きな力を持つことになります。今回はその背景を詳しく見ていきます。磐井の乱に至るまでの経緯も分かるように書いてくつもりです。では、どうぞ。

 

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古墳時代の一大勢力・ヤマト政権について 

時期によって権力の在り方も変わってきますので、そこら辺の簡単な事情を確認してみます。

 

【初期】(3~4世紀)・・・豪族らによる連合政権

 

【中期】(4~5世紀)・・・ヤマト政権の強大化

              大王の墓が出現しはじめる(=大規模な古墳)

 

【後期】(6~7世紀)・・・中央の大王に権力が集中

              地方の豪族が服属

 

初期の頃は、出雲の国譲りの例がある様に複数の豪族たちで政治を回していますが、中期には大王と豪族の両頭政治に変化していったと言われています。

 

 

※出雲の国譲りの経緯は下の記事に書かれています。イラスト多用の緩い記事なのでご注意ください。

rekishi-note.hatenablog.com

 

 

その両頭政治で台頭しいたのが葛城氏奈良県の葛城地域に拠点を置く豪族ですが、5世紀後半、第21代雄略朝で没落雄略天皇に葛城氏の娘が嫁いでますが)していきます。

 

この雄略天皇ですが、渡来人系の技術者を重用して殖産興業に努めたほか、朝鮮半島や中国大陸との交渉も活発に行っています。雄略天皇は、武力に長けた大王でもあり、『宋書』に書かれた五王「讃・珍・済・興・武」の中の「武」だとされており、朝鮮半島にも(軍事的に)進出していたこともあったと言われる人物です。

 

 

この後は4代ほど短命の天皇が続きます。最後の第25代天皇には子がいなかったため、大伴金村物部麁鹿火が第26代天皇継体天皇を引っ張り出してきます。

 

継体天皇は第15代応神天皇の5世孫です(日本書紀より)。応神天皇はその時の皇后(神功皇后=前天皇没後、長く政権を執った)と共に正統な後継者である兄から権力を奪取したと言われます。真相は不明ですが、継体天皇新羅征伐の帰路に筑紫で生まれている他、大陸からやってきた騎馬民族の王という噂もあったようです。ひょっとすると新羅側の謀略かもしれませんが…とにかく大陸と切っても切り離せない人物です。

 

継体天皇は新王朝の開祖では?と言われてたりもしますが、今は豪族のお話なので一旦おいておくことにします。

 

ともかく、継体天皇を強く推したのが大伴氏物部氏だったわけです。この両氏、実はどちらも軍事的な役割を担っていたとされています。どうやら雄略天皇の辺りから重用されていたようです。

 

日本の古代史には欠かせない朝鮮半島情勢はどうだったの??

5世紀に入ってからの朝鮮半島では北部の高句麗が南下政策をはじめており、百済新羅は同盟関係を結んでいます。高句麗の南下政策は、当時の中国が(五胡)十六国時代南北朝時代の移行期で混乱していたことも背景にあると考えられています。

 

一方で、日本と最も関係の深かったのは伽耶(かや、加羅とも言われる)南部です。伽耶は滅亡まで一つの国に統合する事のなかった国の集合体のような?国です。

 

そんな伽耶諸国の中でも隆盛した場所がいくつかあります。伽耶ができた当初は金官国(きんかんこく)と呼ばれる場所が栄えますが、(その金官国高句麗から攻められて力を失ったため)5世紀後半からは内陸部に合った鉄の生産で優位に立っていた伽耶(だいかや)が発展した地域となっています。

 

日本は、資源の輸入のためにも朝鮮半島での影響力は保持したい立場にあります。そんな理由から朝鮮半島諸国の抗争の中、優位に立つため高句麗伽耶に攻めることもあったようです高句麗に対抗するため百済伽耶南部・日本間で同盟関係がありました)

 

こんな混乱してやまない朝鮮半島情勢の中、伽耶は徐々に勢力をそがれることになります。実際に、6世紀初めの継体朝(けいたいちょう)では重要問題の一つとして朝鮮半島との関係が挙げられています。そんな中で徐々に頭角を現してきたのは朝鮮半島南部の新羅です。

 

ここで継体朝百済伽耶南部は救援を求めることとなります。結局527年、継体天皇新羅征伐のための出兵を命じています。が、新羅も当然対策します。

 

倭国から朝鮮半島への出兵する際、重い負担がかかるのはやはり九州北部。そこで新羅は九州北部にある筑紫の国造「磐井」に賄賂を贈り取り込んだそうです。元々継体天皇は正当な後継者か怪しいとの説もある人物。

その結果、磐井の乱と呼ばれる反乱にまで至ったとされています。

 

継体天皇については下の記事に書いてあります。

rekishi-note.hatenablog.com

 

磐井の乱平定後、新羅出征をしますが時すでに遅し。新羅は既に強くなっており、出征は失敗に終わります。

 

磐井の乱物部氏は中心的な働きをした一方、朝鮮半島関係の責任者は大伴氏。(第29代)欽明(きんめい)朝において物部氏はその責任を追及し、大伴金村は隠居。大伴氏の全盛期を終える事にはなりますが、その後も度々大伴氏は歴史の表舞台に顔を覗かせています。

 

※なお、継体天皇没後は皇統が分裂しているので、第26代から一気に第29代になったように見えるだけで時期的にはそう変わりません。

※大伴氏の末裔で有名なのは「大伴家持(おおとものやかもち)」。『万葉集』の歌人として国語の教科書で見たことがあると思います。

 

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仏教伝来と蘇我氏隆盛への布石

この欽明朝ですが、今後に影響する重要な出来事が起こります。第一に仏教の伝来。これは現在に至るまで大きな影響を与えています。第二に蘇我氏の娘を娶ったこと。

 

蘇我氏は渡来人との関係の深い豪族です。渡来人も多くいる品部のリーダー大伴氏が失脚後の朝鮮半島との関係を結ぶのには最適な氏とも言えます。実際には大伴氏失脚の前から蘇我氏は大臣についていたわけですが。それが大伴氏を失脚させる前準備だったかどうかまでは定かではありませんが勘ぐってしまいますね。

 

ともかく百済から伝わったとされる仏教を推すのは蘇我氏にとって自然な成り行きです。

 

一方で、物部氏にとれば面白い訳がありません。元来、物部氏は日本古来の宗教とも関わりある職能についていたとされていますし、欽明朝仏教が広まればますます蘇我氏が大きくなります(実際に朝廷側の意図としても物部氏の権力を抑えたいという意図が見え隠れします)。

 

ここから蘇我氏物部氏の対立が本格化していきますが、結果はご存知の通り。崇仏派の蘇我氏に軍配が上がった訳です。

 

以前書いた記事、銃・鉄・病原菌にもあるように仏教が入るとほぼ同時に天然痘と思われる疫病が入って来てるため、蘇我氏の影響力が下がることもありました。が、欽明朝で大臣になった蘇我稲目(そがのいなめ)以降、特に物部氏を打って以降は蘇我氏の一極体制が続きます。

 

後の歴史書に書かれたことなので蘇我氏を殊更悪く書いてあります。その書を見る限り、その専横ぶりはすごいものがあります。天皇の暗殺なんかも噂される程です。

 

当然反発を招き、乙巳の変(いっしのへん、おっしのへん)まで至ることとなりますが、また改めて書かさせて貰います。なお、現在では大化の改新と呼ばれる出来事は中大兄皇子中臣鎌足蘇我入鹿を倒した後の一連の政治改革を指していると言われています(H27.2.22文章訂正しています)

 

 

なお、蘇我稲目が大臣になれた理由に奥さんの存在があったそうで、古墳時代、豪族の対立に至るまでの経緯を調べてみる にも書いた、古くに台頭していた葛城氏の娘が蘇我稲目に嫁いでいるようです。

 

以上が、古墳〜飛鳥時代にかけての豪族対立の経緯でした。

違う記事では、

については此処まで。思っていた以上に長くなりましたが、何となくの流れは以上です。

 

rekishi-note.hatenablog.com


※2018年10月27日更新