日本史が好きになる?歴史ブログ

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大化の改新と律令制

古墳時代ー飛鳥時代、豪族の対立に至るまでの経緯を調べてみるにあった豪族同士の対立…最終的には大化の改新まで至ったという話でしたが、今回はその大化の改新が始まるまでの状況、更にはその先の出来事に焦点を当ててみます。なお、前回は人に焦点を当てたのに対して今回は政策などに注目していきます。

 

邪馬台国論争と同様「大化の改新」の実態は未だに掴めていません。実際に、教科書でも様々な書き方がなされていてハッキリとしていません。

 

「大化改新」隠された真相―蘇我氏は本当に逆臣だったのか?

「大化改新」隠された真相―蘇我氏は本当に逆臣だったのか?

 

今回はこちらの本を使って要約した表を作ってみたので、それを元に探っていくことにします。ではどうぞ。

 

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大化改新ってなんだっけ? 

最近「大化の改新中大兄皇子中臣鎌足による蘇我入鹿暗殺事件」ではなく、蘇我入鹿蝦夷が暗殺された出来事はその干支から「乙巳(いっし)の変」と呼ばれることが多くなりました。基本的に大化の改新とは、基本的には蘇我氏宗家滅亡後の政治改革を指しています。

 

 

当時の日本の状況を見てみよう

下の図は古墳時代飛鳥時代にかけての倭国(ヤマト政権)及び周辺諸国の状況です。オレンジの矢印が軍事衝突、緑がその出来事がどう影響したか?を表しています。

 

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 新羅高句麗に接近

  ・・・見た書籍には時期が書いていなかったが文脈的にこの時期だろう、と判断。

     新羅はともかく外交が巧みで上手く周辺国を利用しているのが伺える。

 

まず、4~5世紀頃に注目してみます。百済伽耶そして倭国で同盟を結び、現・中国周辺の混乱に乗じて南下を始めた高句麗と戦っています。この結果は現・吉林省で発見された広開土王碑好太王とも)に高句麗が勝利した旨が記述されています。

 

伽耶は国のような集まりでできた集合体のような国で、ヤマト政権はその伽耶を影響下に置いていました(諸説あり)百済もまた非常に倭国とは近い関係にあり、人や文化の交流も活発でした。遅くとも552年(538年説もあり)には百済聖王が送った学者らによって仏教が伝わったと言われています。

 

なお、百済視点だと倭国仏教を伝えたのは朝鮮半島での地位を優位にする戦略のためだと思われます。高句麗の軍事的圧力が増したため538年に天然の要塞のような地域(扶余)に首都を移すなど緊迫した情勢でした。実際、仏教を伝えた聖王は何度も倭国に援軍を要請しています。

 

 

この仏教を巡って当時の有力豪族・蘇我氏(崇仏派)物部氏(排仏派)が対立。その結果、587年蘇我氏が権力を得ることに成功します。彼らは渡来人を支配下に置き、周辺諸国の動向に相当詳しかったようです。 この物部氏との争いの際に決着をつけた中心人物が蘇我馬子(そがのうまこ)厩戸皇子(うまやどのおうじ=聖徳太子です。

 

※ 蘇我氏が台頭した経緯は下の記事に書かれています。

rekishi-note.hatenablog.com

 

 

海外情勢を見てみよう

蘇我氏が一つ抜け出た時期から遡ること6年、581年に中国ではという統一王朝ができていました。これを受けて朝鮮半島情勢は複雑な事態に陥ります。

 

は北方に突厥(とつけつ)という異民族との問題を抱えていました。そこで高句麗突厥が結ぶのを恐れ、3度高句麗に攻め込むも失敗。ここで新羅が益々力をつける事に百済は552年に新羅に裏切られて以降高句麗とは面していないため影響なし)

一国だけで強い国力を持つ圧倒的な隋という国が近くに出来た事実は想像以上に近隣諸国に重くのしかかったことでしょう。

 

に備えようというのは何も陸続きの国だけとは限りません。倭国も同様だったと考えられます。の水軍を構成する楼船という船も軍隊も圧倒的だと見られるからです。

 

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船には投石器が設置され、火矢による火災を防ぐための工夫が施されています(写真は裏辺研究所さんの『所長の北京弾丸旅行』より)。 

 

 

日本が行った隋対策と蘇我氏への反発

そんな中で物部氏を滅ぼした後、588年飛鳥寺の建立が始まっています。これは飛鳥に都を作るための布石と見られ、蘇我氏が主導してます。飛鳥は防御のしやすい天然の要塞のような場所。百済扶余という拠点とよく似ているそうで、周辺諸国の動向を考えての遷都だった線が浮かんできます。

 

更に592年には当時の天皇崇峻天皇が暗殺。蘇我馬子により推薦されて即位した天皇でしたが、事実上の実権は蘇我氏が持っており不満を感じるようになっていました。これが拗れて暗殺という出来事にまで発展したとされています。

 

ところが、天皇暗殺という異常事態にも関わらず、周りはそんなに動揺していません。それどころか暗殺の1か月後には宮を移して推古天皇が即位…なんて状況です。そのため、推古天皇(即位前は吹屋姫はじめ他の皇族や豪族らも関与していたのでは?と言われているようです。

 

その1年後には、聖徳太子摂政(=天皇の補佐役)となって蘇我氏と共に積極的な外交政策に乗り出し、600年に第1回の遣隋使を送ります。この時、に軽くあしらわれた、なんて事情から聖徳太子天皇の権威を高めて国内の制度を充実させる方針となりました。

その代表的な制度が

  • 冠位十二階の制度
  • 憲法十七条

です。特に冠位十二階の制度は、それまでと違い個人が昇進可能な制度となってます。

 

 

この制度は当然反発を覚える勢力もいたことと思われます。それまで絶対だった氏の権威が関係なしにあまり良くない出自の人も出世できるようになったわけですから。

 

加えて、先ほどの制度を整備した中心人物達の死後

ことから「蘇我氏=専横が酷い」という印象がしっかりとついてしまいました。

ですが、この山背大兄王蘇我入鹿の従兄にあたります。つまりは、皇室とのパイプの一つが途切れることを意味することになり、かならずしも蘇我氏のメリットだけで暗殺したとは思えないのです。

 

それは下の関係図を見ると少し分かるかと思います。

 

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入り組み過ぎて分かりにくいですけど、大王(天皇蘇我氏が強い姻戚関係で結ばれているのが分かります。

 

6世紀初頭に25代武烈天皇崩御後、かなり遠い地から継体天皇が迎えられて即位していますが、その後も王権が安定しません。そこで王権の安定のためにも有力豪族との関係を構築することが急務となりました。その結果、上図のような入り組んだ系図となっていったのです。

 

 

難航した後継者選び

少々話を戻します。先ほどの隋対策を行った中心人物の一人に推古天皇は後継者を指名していません。その際に候補として挙がったのが山背大兄王田村皇子(たむらのおうじ)になります。結局、田村皇子舒明天皇として即位。諸説ありますが、推古天皇山背大兄王に「未熟者」という類の遺言をした(当時まだ若かった)位危なっかしかったという説や蘇我氏系の天皇を続けないことで蘇我勢力との対立を防ぐためという説などがあります。

 

この推古天皇舒明天皇ですが、蘇我馬子の娘や蘇我蝦夷の娘、更に舒明天皇の異母弟の娘・寶女王(=たからのみこひめ、後の皇極天皇斉明天皇)と婚姻関係を結びます。その際、蘇我馬子の娘との間に古人大兄皇子という男児をもうけている他、皇極天皇との間に中大兄皇子(後の天智天皇)、第40代の天武天皇を授かっています。

 

さて、この舒明天皇崩御後も後継者選びが難航していました。この時の候補は、表にある黄色の線で引かれた4人…古人大兄皇子(ふるひとのおおえのみこ)軽皇子(かるのみこ)、そして山背大兄王中大兄皇子です。中でも最も皇位に近かったのが山背大兄王だったと言われています。

 

この山背大兄王蘇我蝦夷の跡を継いだ蘇我入鹿が自害へ追い込みます。

その理由として『藤原氏家伝』では、皇位を望む自己主張が激しい他、630年に来日した唐の使節と礼を争うなどの行動から蘇我入鹿「乱」となることを憂慮していたと指摘されています。そして、この『藤氏家伝』では山背大兄王殺害は蘇我入鹿だけでなく、軽皇子中臣氏大伴氏まで関わっていたと書かれているようです。

 

結果、舒明天皇崩御後は一時的に皇極天皇皇位につきますが、最終的には軽皇子孝徳天皇と名を変えて即位。では次は誰になるでしょう??

普通に考えると、古人大兄皇子中大兄皇子です。中大兄皇子蘇我氏の娘と婚姻関係にあり、蘇我氏と全く関係のない立場ではありません。ところが、蘇我入鹿中大兄皇子には決定的に政治方針が異なりました。

 

 

 ◎ 蘇我入鹿 ・・・ 飛鳥の防衛を固めつつ百済以外にとの融和路線を図る

            (飛鳥周辺の寺の配置や難波の港整備の痕跡などから推測)

 ◎ 中大兄皇子 ・・・ 古人大兄皇子中大兄を指して「百済」とあだ名する

            ほど百済寄り(=保守的なスタンス?)と推測

 

 

こうなると蘇我氏が推すのは一人(=古人大兄皇子)のみになってしまうわけです。だとすると中大兄皇子の立場は非常に厳しくなってきます。いつ消されるか分からない状況です。ここから乙巳の変に繋がっていったと考えられます。

 

 

孝徳天皇は645年ー654年が在位期間。崩御後は再び斉明(皇極)天皇が655年ー661年まで在位しています。この間にあった関係の在りそうな出来事(直前も含む)を整理していきます。

 

  645年 ・・・ 7/10  中大兄皇子中臣鎌足らにより蘇我入鹿暗殺

         7/11  蘇我蝦夷自殺 ⇒ 蘇我氏宗家滅亡

         7/12  皇極天皇退位 ⇒ 孝徳天皇即位

         7/17  日本で初めての年号「大化」と定める

           10月  古人大兄皇子を征討

         12月  難波長柄豊碕宮に遷都

 

あり得ないほど周到に用意されているように見えます。この時、軍師のような働きをしたのが中臣鎌足ではないかとされているようです。続けていきます。

 

   646年 ・・・ 改新の詔(=新しい施政方針を示したもの)

 

この時に、公地公民制租庸調の税制班田収授法が確立したことを『日本書紀』は伝えています。ところが、後に詔の内容は後世に書き足したものだと判明。この改新の詔の時に…つまりは大化の改新律令制の方針が明らかにされた訳じゃないことが最近分かってきています。

 

※ 班田収授法や租庸調については「荘園って何?」 その1 ―飛鳥時代からの土地の制度について― に書いてます。


 

   655年 ・・・ 孝徳天皇崩御

   656年 ・・・ 斉明天皇即位

   660年 ・・・ 百済滅亡

   661年 ・・・ 百済奪還のために兵を整えている最中、斉明天皇崩御

 

大体、こんな流れです。斉明天皇中大兄皇子の母親で政治の実権は主に中大兄皇子が採っている他、重臣の一人として中臣鎌足の名前も見られます。

 

結局、百済奪還のための出兵は663年になります。この時の戦いを白村江(はくすきのえ)の戦いと呼び、新羅の連合軍に大敗。

 

この戦いがあって以降、各地に堤や山城を築き国土防衛を強化し、豪族のを取りまとめて序列化するために甲子(かっし)の宣を出して国政改革を断行。飛鳥にある宮から大津宮へ遷都した中大兄皇子は668年、天智天皇として即位します。

 

その後、日本で初の全国規模の戸籍を作成したり班田収授法が実際に発足されたりして律令国の礎を築いていきます。

 

日本という国号は645年時にはあったという旨が日本書紀には書かれているが定かではありません。ただ、678年に制作されていると考えられる墓誌には日本天皇という言葉が書かれており、強力な中央集権国家を作る上で必要な名称だったように思います。

 

 

「大化改新」隠された真相―蘇我氏は本当に逆臣だったのか?を見ると新しい視点ながらも納得できる部分も結構ありました。

 

この本では、大化の改新律令国になったわけでなく実際は白村江の戦いが分岐点ということ、乙巳の変では蘇我入鹿だけが悪党だったわけではなく後継者争いの一つだったということが大体書かれていました。この流れなら何となく律令国家へ転換せざるを得ない状況が分かる気がしますので、私自身はこの説はありかと思います。

 

 

下には、ベースの本の他に参考にした書籍を載せておきます。興味があれば見てみてください。

 

オールカラーでわかりやすい! 日本史

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総図解 よくわかる 古代史

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一冊でわかるイラストでわかる図解世界史―地図・イラストを駆使 超ビジュアル100テーマ (SEIBIDO MOOK)

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※2017年12月10日更新

 2018年10月27日更新