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学問の神になった菅原道真の人生

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以前は菅原道真平将門の関係については書きましたが、肝心の菅原道真の人物像には触れませんでしたので、今日は菅原道真について書いてみたい思います。

菅原道真と言えば、インテリのイメージがあります。それは、政治家の顔と同時に文学者、学者としての顔もあるからかもしれません。

 

菅原道真についてお話しする前に彼が出世した理由も見ていきます。 

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藤原氏宇多天皇との関係

菅原道真の話をする前に宇多天皇藤原氏の関係を見ていかなけらばなりません。

 

宇多天皇光孝天皇の第七皇子です。

 

光孝天皇は、先代天皇陽成天皇とその母・藤原高子光孝天皇の時代に最も力を持っていた藤原基経の同母妹)藤原基経との兄妹間での確執や権力争いの末、失脚させられた繋ぎのような形での即位でした。

 

即位の2年後には基経や先代の陽成天皇に配慮して斎宮や斎院になる皇女以外すべての皇子と皇女に源氏姓を賜っています。光孝天皇も当初は自らの子を皇位に就かせることは考えていなかったのでしょう。

 

ところが、病に倒れた光孝天皇は、高子の産んだ貞保親王(11歳)でもなく基経の娘が産んだ貞辰(さだとき)親王(7歳)でもなく、自身の子を皇位に就けたいと思うようになりました。そこで相談したのが基経の義理の妹で尚侍の藤原淑子(しゅくし) です。

 

彼女は光孝天皇の第7子・源定省(さだみ)の養母でもあり、積極的に基経の説得に当たったそうです。これが功を奏し、日本史上唯一皇族身分を離れてから皇位に就く事になりました。 このような経緯から宇多天皇は誕生します。

 

宇多天皇は即位の際に藤原基経関白の地位を授けようとしていました。この勅書を起草したのが橘広相(ひろみ)です。実はこの人、藤原氏に近い学者達と対立関係にありました(今で言う学閥の様なものを作って対立していたようで、菅原道真橘広相側にいました)。更に、橘広相には義子という娘がいて宇多天皇の女御として仕えていたため、今後外戚となる可能性がありました。

 

そこで、藤原基経は『阿衡の紛議』と呼ばれる事件を起こします。その起草した詔の中にある「宜しく阿衡の任をもって卿の任とせよ」との一文の「阿衡」という地位は形ばかりのものだ、と難癖をつけ出仕を拒否したのです。

 

この時に阿衡について言及したのは藤原佐世(すけよ)で、後々宇多天皇がこの藤原佐世陸奥守にするという報復人事を行います。また、阿衡云々が原因ではなく、光孝天皇の時のような政務の全面委任について書かれていなかったことが出仕を拒否した理由ではないか?という人もいるそう。

 

この『阿衡の紛議』を仲介したのが讃岐守だった菅原道真(讃岐守になったのはあまりに優秀すぎて煙たかったからなんて説も)。讃岐は干ばつなどによって行政的に難しい土地でしたが、その悲惨な生活を詩に残すなど行政官としては資質に疑問を持たれることもありました。けれども『阿衡の紛議』では確実に道真の評価が高まっています。

 

菅原道真の家系とその半生 

ここで菅原道真について書いていきましょう。

 

菅原道真は代々の学者家系。文章博士漢詩文や歴史を大学寮で教える教官のこと)というような道で出世してきました。参議に進出したのは父・是善の代と言われています。

 

道真は官吏任官試験である方略試に26歳で突破するなど非常に優秀だったことが分かっています。方略試は230年の間に65人しか合格しておらず、この若さで合格するのは稀な事だったそうです。 この方略試を受けるには学校に行く事が必要があります。当時一番有力だった学校が「山陰亭(菅家廊下)」。菅原氏の私塾であり、菅原家一族やそこを卒業した高級官僚が多くいたこともあって、菅原道真は大きな派閥の長という位置にありました。

 

宇多天皇は唐の翰林学士(かんりんがくし、皇帝が私的に置いた直属のブレーン)と重ねて文章博士を見ていたこと宇多天皇藤原氏との外戚関係を持たなかったことや阿衡の紛議で煮え湯を飲まされたことが理由で)藤原氏を排除して政治の実権を握ろうとしたこともあって、自ら臣下を育成・組織しようとしたのです。そんな裏事情もあって、891年に藤原基経が亡くなると蔵人頭に任じられ、その後も順調に出世の道を辿ります。

 

同時に父の代からの参議で割と新参者だったことや菅原氏の始祖が葬送に関与した土師氏ということもあって異例の出世に対して周りからの妬みも増えていきました。

 

菅原道真は元々葬送に関する土師氏の子孫だったり父の代からの参議だった新参者と扱われていたのですから、周りからの嫌がらせや宇多天皇がいなくなった後は想像できることでしょう。

 

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政治家としての道真 

まず、894年の894(白紙・はくし)に戻そう、遣唐使」ですね。

これは道真の功績ですが、この遣唐使廃止にも裏があります。

 

まず、在位していた宇多天皇翰林学士を参考にするなど唐への造詣が深い天皇でもありましたから、周りの藤原氏道真を煙たく思う者たちが上手く誘導したのでしょう。それまで60年近く行っていなかった遣唐使再開を要請します。

 

もちろん、唐での状況を道真は把握していましたし、道真がいなくなることで藤原氏が再度実権を握ることに抵抗もあって遣唐使に行かないことを決意。ですが、そう簡単にはいきません。60年近く前に遣唐副使となった小野篁(おののたかむら)遣唐使を辞退したことで流罪となっています。そこで道真は唐の当時の情勢からハイリスクローリターンであることを強調し「遣唐使はやめた方が良い」と提案。宇多天皇からの信頼が篤かったこともあって、遣唐使自体が中止となりました。

 

そうこうしているうちに、宇多天皇は897年に突然、13歳の息子・淳仁親王醍醐天皇に譲位します。この理由は仏門に入るためだとか、藤原氏からの政治的自由を勝ち取るためだとか、前皇統に連なる皇族から文句が出る前に自らの子を皇位につけたかったからだとか色々な事を言われていますが、良く分かっていないのが実情です。

 

宇多天皇醍醐天皇の正妃に藤原北家嫡流とは関係のない為子内親王(早世してしまいます)を入内させ、道真・藤原時平の二体制で政治を行わせていきます。

 

ところが、こういった動きが完全に裏目に出る事に。藤原氏だけに任せないよう先手を打ち、宇多天皇の側近を醍醐天皇の周囲に置いていくことで、次第に醍醐天皇の中に宇多上皇と道真らの政治に対する不信感が募っていくことになります。

 

譲位後、宇多上皇道真の後ろ盾としても協力していましたが、同時に仏道にも熱中し、899年には出家して東寺での受戒後、同年仁和寺にて法皇となっていたことで以前ほどの協力が出来なくなっていました。鑑真和尚にも由来する天台宗は朝廷との関わりも深かったのですが、比べると空海弘法大師)が開祖の真言宗は朝廷との関係がどうしても希薄です。真言宗の発言力が高まる事で宇多法皇の朝廷での発言権は増したと言いますので、ひょっとすると信心以外にも発言権を高める目的もあって仏道に熱中していたのかもしれません。

 

そこで901年、醍醐天皇菅原道真やその息子達を左遷

 

もちろん理由なく右大臣を左遷できる訳はありません。左大臣藤原時平の讒言により菅原道真が娘婿の斉世(ときよ)親王を皇太弟に立てようという風説を流したのです。更に醍醐天皇藤原時平の妹・穏子(おんし・やすこ)を女御にし、事実上の正妃として扱うようになります。

 

これにより醍醐天皇藤原氏との連携を深めていき、醍醐天皇藤原時平派が政治的勝利を納めることとなりました。

 

これらの出来事は昌泰の変と呼ばれています。結局903年には道真が失意の下で亡くなりました。

 

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菅原道真の怨霊 

ですが、更にまたどんでん返しがやってきます。それが菅原道真の怨霊騒ぎです。

 

讒言した張本人、藤原時平は30代で若くして病死。時平の息子も急死し、左遷騒ぎを聞きつけた宇多法皇の行く手を阻んだ者達も雷に打たれて死亡。醍醐天皇の皇太子達も次々に亡くなります。

 

こんな事が続き、「菅原道真の怨霊だ!」という噂が立ちました。何しろ亡くなったのは時平派の者達ばかりです。

 

そして、とうとう930年には醍醐天皇がいる清涼殿への落雷事件で多数の死傷者を出しています。それを目撃した醍醐天皇も約3か月後に崩御

 

931年まで宇多法皇は存命されていましたから、事実上政治の中枢部に宇多法皇が戻ることになります。元々道真と親交のあった時平の弟・忠平は兄の死後醍醐天皇が朝政を司っていた間も中枢部に残り出世を重ね、宇多法皇が戻られた後も公務を全うし朱雀天皇村上天皇のもとで政界の中心部にて朝廷に関わっていきます。なお、918年には平将門藤原忠平の下に仕えています。

 

雷に打たれて亡くなっている者達が多数いたことから、雷神と道真は結びつけられました。923年には従二位大宰権帥から右大臣に戻し正二位を贈りますが、それでは足りず後の清涼殿落雷事件に発展。

 

そこで火雷天神(からいてんじん)が地主神として信仰されていた京都の北野に北野天満宮を建立し、道真公の祟りを鎮めようとしたそうです。

 

その後、100年程は大災害のたびに怨霊の仕業だと言われることが多くなり天神信仰が全国に広がったと言われています。また、993年には正一位左大臣太政大臣に昇進させています。これは道真を好意的に見ていた忠平の子孫によるところです。

 

怨霊として恐れられていった道真ですが、時代がたつにつれ生前の類稀なる秀才ぶりから学問の神様と呼ばれるようになり、現在では忠臣としての評価がなされるようになっています。

 

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道真公は学問だけではなく色々な神様だった!!

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当初は、道真公の怨霊を鎮めるために天満宮が作られましたが、時が流れ怨霊としての性格は薄れ、様々な神様として信仰されています。

 

学問の神様

これは菅原氏が代々学者の家系だったことかや、道真自身が優秀な学者だったことに由来します。道真の命日が国立大学の前期日程が2月25日※と重なっているそうで、それも合格祈願に訪れる人を増やしているのかもしれませんね。

※大学によっては違う所もあるみたいですがおおむね2月25日だそうです。

 

文学・和歌の神様

学問の他に、和歌や書道も得意であったことから、このようにあがめられることも…

室町時代連歌(れんが)が流行すると、和歌の神様から派生して連歌の神様としての信仰が生まれます。

現代では、広い意味で文芸・芸能の神様として知られています。

 

至誠(しせい)の神様

政治家として右大臣まで登りつめた道真公は、無実の罪で大宰府に流された後も、自身の潔白と国家の平安を祈り続けたとされています。この最期まで忠実な家臣であった道真は現在、至誠の神様として多くの人々から信仰されています。

 

また死後、冤罪(えんざい)が認められ太政大臣の位まで贈られたことから、

免罪の神様としても知られています。

 

雷神・農耕神

雷を起こしたり、飢饉の原因である日照りなどの自然現象を司る自然現象をつかさどる荒ぶる神は、農民にとっても信仰して鎮めるべき存在でした。

こうして各地に天神様をまつる社やほこらが造られ、五穀豊穣の祈願や雨ごい、水害を鎮める祭りが行われるようになりました。

 

 

現代では、菅原道真は怨霊としてではなく、学問の神様をはじめとしたさまざまな神様として、人々から信仰されています。


菅原道真公を祀る神社は、天満宮・天神社・菅原神社・老松神社・梅が枝神社などと呼ばれ、その数は全国約11,800社になるといわれています。

 

あなたも、近くの神社を探して道真公に参拝してみてはいかがでしょうか??

 

※2018年10月28日 更新