保元の乱の裏事情でも書きはしたのですが、文字が多かったので関係図付きで分かりやすく?説明できればなぁと思います。
■「守仁親王(後の二条天皇)が良いけど、その前に父親の雅仁親王(後の後白河天皇)が就くのがふさわしい!!」というグループ
に別れて勃発した戦いの事です。
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まず、当時の影ながらの実力者として美福門院(得子)という女性がいます。既に亡き鳥羽法皇の寵姫です。
彼女は鳥羽院の財産の多くを相続しました。鳥羽院政下での北面の武士もそのまま引き継いだこともあり、美福門院は朝廷内において経済的にも軍事的にも無視できない存在でした。
そんな彼女は崇徳院とは犬猿の仲。崇徳院・・・というよりも彼女の母・待賢門院(璋子)といった方が本来なら正確なのでしょうが、崇徳院とも保元の乱勃発直前の時点でかなり関係が悪くなっていたと考えられます。
状況証拠ではありますが美福門院が噂でライバルの待賢門院を蹴落としたことで、その息子である崇徳院にもかなりの悪影響が及ぼされていました。
更に仕返しを恐れて?近衛天皇の即位に関する罠を仕掛けていたり・・・崇徳天皇は上皇となっても院政を敷けない事態にまでなっているのですから美福門院を敵視するのは当然と言えば当然です。
美福門院から見ると、そんな崇徳院が院政を敷けば追いやられるのは確実。そんな事情から後白河天皇を推していたのです。
加えて、政策立案者のような存在・信西という人物も絡んでいます。彼はエリート出身の家ではありませんでしたが、鳥羽院政下において持ち前の頭脳で著しい出世を果たした人物です。彼の妻が雅仁親王(=後白河天皇)の乳母だったことが後白河天皇誕生を後押ししたとも言われています。
一方の摂関家ですが、関白で藤原氏長者の忠通には長い間男児が産まれず年の離れた弟を養子として引き取ったことで色々とこじれてしまいます。養子として弟を引き取った後に次々と男児が産まれたためです。
忠通としては実子に後継にしたい。けれども、弟の方も父親の方も頼長が跡を継げると思って養子に出したのに「話が違う」となってしまったのです。
そんな藤原摂関家の家人の中には平忠正や源為義といった人物もいました。平清盛や源義朝らとは親族に当たります。
忠正も為義も鳥羽院政下のミスにより宮中での仕事が出来なくなったことで一矢報いるために?摂関家で頼長の車の護衛などを務め、巻き返しを図ろうとしていたことから摂関家の忠実・頼長派として保元の乱に参加しています。
こういった事情から保元の乱では親族同士が争うことに繋がっていきました。