日本史が好きになる?歴史ブログ

このブログを見て、少しでも歴史を好きになるお手伝いができれば良いと思います。

【北条早雲】下剋上の道 其一 北条早雲(伊勢盛時)と今川家との関係

f:id:miumaga:20171115195004j:plain

下剋上の始まりは、北条早雲が始まりとされています。

 

北条早雲は、小田原城を奪い相模を統一すると言う偉業を達成し、5代に渡り後北条氏の基礎を築いた人物です。

 

北条氏と言うと、鎌倉時代に執権として権力を思うままにした北条氏がいましたが、血のつながりはありません。そのため、鎌倉時代の北条氏は【北条】と北条早雲から始まる北条氏は【後北条】と呼ばれます。

 

 

ちなみに、家紋は一見同じよう見えますが、微妙に違っていて上記後北条氏の家紋で、下記が北条氏の家紋だったそうです。後北条氏の方が少し平べったくなっているのがお分かりでしょうか?

f:id:miumaga:20171115202954j:plain

 

そもそも北条早雲は、亡くなるまで【北条】と言う名を生涯使うことはなかったそうです。北条姓を使用するようになったのは、2代目の氏綱からの様で、鎌倉時代の執権北条氏の権威を受け継ごうと2代目から北条と名乗るようになったそうです。

 

早雲が存命の間は、伊勢の姓を名乗っていたようです。また、早雲と言う名も北条氏の菩提寺が箱根湯本の【早雲寺】であった事から後世につけられた名だと考えられています。

 

今日は戦国時代のきっかけとなった北条早雲について書いて行きたいと思います。

 

 

スポンサードリンク

 

 

北条早雲(伊勢盛時)の誕生

北条早雲の家系は、室町幕府政所執事を務めた備中荏原郷300貫を領した高越山城主の伊勢盛定と言われています。政所執事と言うのは、幕府の金銭出納の責任者でした。お金の出し入れだけではなく、お金の貸し借り民事的な訴訟の仲裁や判決を行ったということなので、その権力は大きかったようです。

 

その伊勢盛定の子として【伊勢盛時】として1456年に誕生したとされています。

※諸説あり。以降早雲と書きます。

 

早雲には、伊勢貞興と言う兄がおりましたが、ある時期からの記録がないので、早世した可能性があり、早雲は早くから嫡男の扱いを受けていた考えられています。

 

 

今川氏と伊勢氏

1467年応仁の乱が起こると、将軍警護のために駿河守護の今川義忠が上洛して花の御所に入り東軍に属しました。この時に、今川義忠は伊勢貞親の屋敷にまめに通っていたそうです。この貞親は、早雲の父・伊勢盛定の妻の兄弟で、盛定と今川義忠も親しくしていたようです。

 

rekishi-note.hatenablog.com

その縁で、早雲の姉※が今川義忠に嫁いで1471年今川氏親(今川義元の父)生みます。

今川義元北条早雲は親戚関係と言うわけです。※以降北川殿と書きます。

 

1471年の早雲が15歳の時、備中荏原郷で出された文章に伊勢盛時(早雲)の署名があり、京で活動する父に代わって所領の管理を行ったと考えられています。

 

1476年今川義忠は、名に背いた横地四郎兵衛と勝間田修理亮を打ち取りましたが、その戦い後の帰還途中で、残党に襲われて戦死してしまいます。突然の今川忠義の死によりわずか6歳の子(氏親)が残された今川家では、家督争いとなり北川殿は、幼い氏親を連れてのがれます。

 

この家督争いは、嫡男、氏親と忠義の従兄弟の小鹿範満で争われましたが、当時の堀越公方・足利真政知関東管領・上杉政憲らが小鹿範満に味方したため、9代将軍・足利義尚申次衆※であった父・伊勢盛定の下へ頼りました。

※申次衆とは、室町幕府の役職の一つで、将軍御所に参上した者の名や要件を取り次ぎ役の事。

 

そして、室町幕府の意向として、父・伊勢盛時の代理として早雲が駿河へ向かい、両者の間に立ち、和議を結ばせます。和議の内容は、氏親が成人するまでは小鹿範満に駿府の地で家督を代行することになりました。

 

この出来事がきっかけで、北条早雲と今川家との絆が深まり北条早雲の関東進出の足掛かりとなり【後北条】誕生に繋がります。

 

スポンサードリンク

 

 

早雲の今川家士官

1479年、将軍・足利義政氏親の今川家継承を認めて本領を安堵する内書を発給するが、15歳を過ぎても家督代行の小鹿範満は、家督を譲ろうとしませんでした。

 

そんな中1481年に早雲は、9代将軍・足利義尚申次衆に就任します。この時から、【伊勢新九郎盛時】の名がたびたび記録されることになります。

 

1486年扇谷上杉家上杉定正により、小鹿範満を後ろで支えていた武将が暗殺されたことにより、その権力基盤が弱体化しました。それ好機と北川殿は、小鹿範満を討つため早雲に助けを求めます。

 

この頃には、早雲の嫡男である、北条氏綱が生まれ、早雲自身も30歳とまさに脂の乗った時期でした。

 

そんな中1487年に早雲は、奉公衆(将軍の親衛隊)となりました。

各国の支配を守護に任せていた室町幕府ですが、国内の武士を家臣に加えて勢力を拡大することを防止するために、親衛隊が必要でした。

 

早雲ら奉公衆になった武士と言うのは、守護と同じく【将軍の家臣である】と言うプライドと独立心を持っていました。戦に出陣するときは、将軍から直接命令を受けたうえで、守護の指揮下に入って先頭に加わっていました。

 

北川殿(実姉)に助けを求められていた早雲は、1487年11月駿河を襲撃して小鹿範満を自害させます。これにより、今川氏親駿河に入ることができ、2年後に今川家当主として家督を継ぐことが出来ました。

 

 

この時、早雲は今川氏親を支援するために、京へは戻らずに今川家の家臣として使えることになり、今川家から興国寺城が与えられ、北条早雲(伊勢盛時)は興国寺城主となりました。

 

この興国寺城が、伊豆、相模へと進出する起点となるのですが、長くなりそうなので続きは別の記事で書きたいと思います。

 

 

 

rekishi-note.hatenablog.com

 

 

rekishi-note.hatenablog.com

rekishi-note.hatenablog.com