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【北条早雲】下剋上への道 其三 相模平定と北条氏5代

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北条早雲による相模平定

早雲は、扇谷上杉家上杉朝良から軍事協力の求めを大義名分として相模国の統一を目指します。

 

 

1505年権大納言の公卿の娘が今川氏親に嫁ぎました。この人がのちの、駿河の尼将軍とも呼ばれた【寿桂尼(じゅけいに)】で、今川義元の母です。

1506年、早雲は小田原周辺で検地を実施します。戦国大名による検地としては初の事例となります。同じ年には、早雲は今川軍を率いて三河松平長親と戦いますが敗れています。

1508年、今川家が正式に遠江守護に任命されます。

 

この頃までは、一国の主でありながら今川家の武将として出陣することが多々あったのですが1509年以降は、今川家の武将として出陣することが無くなっています。

ようするに、これ以降今川家から正式に独立をして本格的に相模国への進出を図ったのでしょう。


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一方で関東では、1507年に山内家の上杉憲房と隠居していた扇谷家の上杉朝良の妹の婚姻が成立して、山内・扇谷家の同盟関係が成立します。しかし、越後守護の上杉房能が守護代長尾為影(謙信の父)に追われて打たれてしまいます。


1509年7月に、上杉顕定が長尾為影討伐のために越後に出陣したのを受けて、早雲は隙をついて扇谷・上杉朝良をけん制するために出陣します。

1510年、越後に出陣していた上杉顕定は、返り討ちにあい長尾為影に打たれてしまいます。北条早雲と同じように下剋上として、山内上杉家筆頭家老だった長尾家は、上杉憲房を破り白井城を奪い、北条早雲と同盟を結びます。

 

この上杉家とのいざこざを見て三浦義同が、早雲の住吉要害を攻略して、小田原まで迫り早雲を追い詰めました。しかし、上杉方と和睦をしたことで窮地を脱し、三浦軍はを引き上げていきます。結果的にこの引き上げが三浦家の命取りになることも知らずに…

 

手痛い敗北を喫した早雲は、上杉攻略よりもまずは相模平定と考えて三浦家討伐の決意をします。

1512年8月、早雲は古賀公方の内紛に乗じて、三浦義同の本拠地の岡崎城を落城させます。続いて、大庭城も攻略して三浦義同は、弟・道香が守る逗子小坪の住吉城に逃れて徹底抗戦しました。

この住吉城は、天然の要塞ですぐには落ちずに、牽制のため扇谷上杉と三浦家を絶つために、大船に玉縄城の普請を開始して、そこに次男の氏時を置きました。

翌年の1513年1月まで両軍の小競り合いが鎌倉や藤沢などで頻発する【鎌倉合戦】が起こります。鎌倉時代以来のこの争いは、南北朝の内乱期で大半が失われていた寺社でしたが、わずかに残ったモノまでこれにより失われました。

 

この争いで、三浦道香が討死して住吉城も落城すると、三浦義同は逃れて、三崎城に立てこもり上杉朝良の援軍を要請します。上杉軍が援軍を率いて三浦義同の下へ駆けつけますが、早雲により撃退されます。さらに三浦義同は、新井城に籠城することになります。

 

同時に、早雲は鎌倉入りして相模国において籠城している三浦家を除いた御家人・豪族たちを支配下に置くことに成功します。その後も籠城した三浦義同を攻め立てるも、海に突き出た自然の要塞を力攻めすることもできず、包囲する作戦に出るも約3年の月日を費やすことになります。

 

歴史が動いたのは、1516年7月で再三の援軍要請に上杉朝良江戸城から三浦半島へ援軍を送った事で動き出します。この援軍で早雲は、新井城の三浦家の囲みに2000人を残して、残りの5000人を上杉の援軍に備え、撃破します。

 

上杉の援軍が敗れた事を知り三浦義同は、最後に討って出る決断をします。

城から討って出る前夜に、

 

落ちんと思うものは落ちよ!死せんと思うものは討死して後世に名を留めよ!

 

言って、宴を行いました。

 

この危機的状況にもかかわらず、城から逃げる者が一人もおらず、翌朝に城門を開いて敵陣に突入します。死を覚悟した三浦軍の兵はすさまじく、早雲軍は有力家臣が討死するなど一時は劣勢になりましたが、三浦軍は疲れ果て城に戻ると思い思いに切腹をします。

 

その中に、三浦義同も息子の勧めで切腹したとされています。

 

その息子である三浦義意は、父の切腹を見届けたのち、敵陣に突撃して21歳の若さで討死し、450年半島を治めていた名門・三浦家が滅びます。

落城後に入場した際には。討死した三浦家家臣たちの血によって湾一面の海が血に染まり油を流したようになった事からこの湾は、【油壺】と呼ばれてるようになったそうです。こうして、三浦家との激戦の末北条早雲は、61歳の時に相模全体を平定します。

 

その後も、相模の国人衆を傘下に加えて、伊豆や相模の水軍を確保して、上総の武田家を支援するために、海路で房総半島に渡り1517年まで戦いに明け暮れました。


そして北条早雲1518年家督北条氏綱に譲り、1519年に死去します。

 

早雲死去と同じ年に今川義元が誕生して、その2年後には武田信玄が生まれます。

 

 

戦国大名としては最初に検地をおこなったり、東国初の分国法を定め、国の主体は農民であること信念に相模の地に善政を敷きました。

北条家の家訓には、【上下万民に対し、一言半句であっても嘘を言ってはならない】とあります。

この家訓を忠実に守りこの相模地方に善政を敷いた北条家は、豊臣秀吉の20万の大軍にて小田原に攻められるまで、戦国大名唯一と言っていいほど、北条家中で家臣・領民の大きな争いがなかったそうです。

 

 

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