日本史が好きになる?歴史ブログ

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律令政治で地方に作られた国府とは?

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飛鳥時代後期から平安時代初期にかけて日本は律令国でした。

律令国家とは、【全ての国民と国土は、天皇の支配を受ける】とおり、天皇を中心とした中央集権を目指した政治体制でした。

 

中大兄皇子蘇我氏を倒して、大化の改新によって律令政治が始まったとされていましたが、最近では大化の改新後徐々に中央政権化が進んでいったとされています。

701年に、日本初の律令法典でもある大宝律令が施行されました。これによって、日本と言う国の名前が定められて、藤原京から平城京へ都を移して、本格的な律令都市が建設されることになります。

 

また、律令制での税の徴収に役に立つ戸籍が作られ、貨幣の鋳造度量衡※の制定などが行われました。※度量衡(どりょうこう)は色々なモノの単位の事

こうした律令制度が整備される中、各地方に作られたのが国府と言う都市です。

 

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国府は地方行政の中心地だった

国府は、政治を司る国庁を中心に官衙(かんが)倉庫、工房などが置かれ、地方を統括する官庁都市でした。この頃の産業の中心は農業であったため、商工業はまだ小規模なもので、一般市民の居住エリアはあまり大きくなかったようです。

 

国府には、仏教を布教するために、国分寺国分尼寺や様々な神々を祀った総社などが設置されていました。国府の設置場所には、当時の官道であった駅路沿い、特に分岐点に置かれることが多かったそうです。また、都との通信には馬が使われており、旅をする官人のための馬を用意した馬屋である、駅家も付近にあったようです。

 

国府の位置で現在知られている場所では、静岡県静岡市京都府府中市滋賀県大津市鳥取県鳥取市岡山県岡山市などにあったとされています。これらの場所の多くが交通の要所であり、いまも地方都市として栄えていることが分かります。

当時国府があった地域には、地名に『』が付くことが多いそうで、東京西部にある【府中】は旧武蔵国府の名残とも言われています。

 

国府の中心となる国庁の構造は、長方形の壁の中に南向きに正殿、その左右には脇殿があり、平城京がモデルとなっているそうです。施設の中には、造船所船や染織工房もあったそうです。

 

国府は、地方行政の頂点であり、国司と呼ばれる高級官僚が中央から派遣されて、その下に地方豪族たち働いていました。しかし、9世紀~10世紀には律令制が崩壊して、その後は国司に一任されることになり、その権力が増大していくことになります。

これが地方の混乱を招き、武士階級を生むきっかけになったとも言われています。

 

 

 

国府内の施設と仕事

 

      施設名  役割 
 国庁  朝廷・国司・地方豪族と言う上下関係を確認する儀礼・饗宴の場所。研究から、文章行政も行われていたとされています。
 国士舘  守を始めとする四等官の宿舎。交易や客人をもてなす場でもありました。平安時代になると、儀礼や執務にも使われました。
 曹司  国府の下で、実務を執り行う役人たちの宿舎。多くの部署に分かれていたようです。
 国府  国府の官人たちのための食事を作る場所。
 倉庫群  正倉院とも呼ばれる国の倉庫で、米などが蓄えられています。
 駅家・国府津  陸上・水上それぞれの交通の拠点で休息や物資の補給ができるようになっています。
 国分寺・尼寺  聖武天皇が国家鎮護の一環として国ごとに置かせた国立の寺。

 

 

国府の仕事は、租税の管理や警察業務他、水陸の交通の拠点の維持管理も含まれていました。派遣される官僚も単身赴任が多かったようで、宿舎や食事を作る施設も兼ね備えていました。