日本史が好きになる?歴史ブログ

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江戸の失業対策 ~江戸の牢人問題と由比正雪の乱~

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江戸の文治政治の始まりの記事で、武士の失業について触れましたが、今回は少し掘り下げて書いてみたいと思います。

 

rekishi-note.hatenablog.com

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武断政治からの方針転換

徳川家康が幕府を開き、大坂の陣で豊臣家を滅ぼしたあと、徳川家に敵対した大名は家康によって潰されていきました。そのため、潰された大名自身やその家臣たちも職を失うことになります。

 

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しかし、江戸初期の頃は【下剋上の精神】がまだ残っていたため、『この男はどこどこの合戦で活躍した〇〇だ!』と言う名声が有れば、採用する側が誘っていたため、武士の失業もあまり表に出ていませんでした。

 

また、数々の武功を立ててきたこのような武将を自分の家臣として迎え入れるのも、この頃の大名のステイタスともなっていました。

 

うちの家では〇〇を一万石で召し抱えた』と雇う側は自慢し、雇われる側も『〇〇の大名から1万石で誘われたけど少なから断ってやったわ』と需要と供給が成り立っていました。

 

ところが、世の中が落ち着いてくると、この【下剋上の精神】が邪魔をして、使う側がやりにくくなってきました。そこで、幕府は朱子学を持ち込み【君、君たらざれば、臣、臣たらず】の精神である下剋上の精神から、【君、君たらざずとも、臣、臣たれ】の精神が叩き込まれました。

 

この朱子学の精神がいきわたる頃には、【武士とは、使う側にとって聞き分けの良い使用人】となりました。

 

そうなると、大名の採用基準も昔のように行きません。

 

雇う側が求めた条件が、

 

  1. 算術に長けているか?
  2. 領内を検地し年貢の増収を図れる才能があるか?

 

になってきて、【武弁者】より【算勘の者】が歓迎されるようになりました。

 

算は【そろばん

勘は【もっている財政感覚で増収計画を立てて、どれだけ確実に収入を増やせるか

 

とされており、これからの武士は数字に強く、たくさんの年貢を持ってくることに重きが置かれることになりました。

 

当然、この傾向は、再就職活動する武士側にも影響が出てきました。

今までの考え方を捨てて再就職にありつける者もいしたが、多くの武士たちはこのやり方に反発しました。そういった武士たちは、再就職が段々と難しくなり、生活が追い詰められる状況になってきました。

 

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江戸の牢人問題と慶安の乱

三代家光の頃になると、武力で大名達を押さえつける政治手法武断政治】を行っていました。当然この手法は、各大名たちの反感を買う事になり、反抗した大名たちはお家断絶や改易され、藩自体が消滅する事が起きていました。

 

そのため、その藩に仕えていた武士たちがこぞってリストラされて、牢人が江戸の街に溢れかえってしまいます。中には、武士やめて町人として暮らすものも居たそうだが、ほとんどの武士は幕府に恨みを持ったまま追い詰められら生活を強いられていたそうです。

 

そんな状況の中、由比正雪は、これらの浪人たちを集めれば幕府転覆が出来るのではないかと計画を立てました。そこで集まったのが、丸橋中弥が率いる牢人軍団でした。

 

由比正雪らは三代将軍家光が没し、4代将軍家綱が幼くして将軍になったと同時に行動を開始しました。しかし、一味の密告により、幕府はこの企てをいち早く察知して、正雪らを一網打尽にしました。

 

この慶安の乱(由比正雪の乱)をきかっけに、【牢人を生み出し続けた結果、幕府の首を絞める事】になったのを痛感して対策を講じるために、会議を開きました。

 

この会議には、老中・松平信綱阿部忠秋保科正之が顔を合わせました。

松平信綱は当初【江戸に住んでいるすべての牢人たちを全て追放】する、強硬策を出していました。しかし、現場で牢人たちの実情を見ていた江戸町奉行石谷貞清が真っ向から反対しました。

 

石谷貞清が言うには、今回の事件は…

  1. 由比正雪の企てのおおもとの原因は【牢人問題】にある
  2. 大坂の陣で豊臣家に味方し失業した武士達の件が今だ引きずっている
  3. 島原の乱にも多くの牢人たちが参加していた
  4. 由比正雪はこの乱を通して【何とか牢人たちの再就職先を確保してくれ】と訴えていた

 

よって、江戸中の牢人を追放してもやがて第二、第三の正雪事件が起こるのは目に見えているということを訴えました。松平信綱は自分の意見を真っ向から否定され、不機嫌になったが、阿部、保科両氏の説得もあり石谷の意見が取り入れられることになります。

 

この江戸町奉行石谷の意見により、大名家のお取り潰し基準が緩められ【末期養子の禁緩和】 が行われる事となりました。

 

末期養子とは、【後継ぎがいない武士がその死に際になって急に養子を取ること】です。これまで、武家を子供に継がせるにはあらかじめ幕府に届け出が必要で、手続きが行われていなければ、その武家は取り潰しとなっていました。

 

このあらかじめ幕府に届け出と言うのがミソで、末期養子は【後継ぎがいない武士が死に際に取る養子】のため、当然幕府への届け出が間に合いません。そのため、この決まりのせいでたくさんの大名家が取り潰しになっていたのです。

 

石谷はこの決まりを緩和するだけで多くの大名家が救われるとし、老中たちに嘆願をしたのです。それと同時に、幕府が先頭を切って江戸にいる牢人たちを採用してもらうようにも頼みました。

 

こうして【末期養子の禁の緩和】と幕府による再雇用の手が差し伸べられ由比正雪の乱を発端とし、幕府の失業対策が行われたのでした。