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戦国大名一番乗りに政権掌握していた三好氏とは!?

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三好氏は、信濃源氏の一族で鎌倉時代承久の乱以降、阿波守護となった阿波小笠原氏の末裔です。阿波三好郡を本拠地にしたことから、三好と名乗るようになりました。

 

室町時代には、阿波守護の細川氏守護代を務め、戦国時代に入ると三好長慶が、管領細川氏に対して下剋上を起こし、阿波を初めとする四国東部のみならず、機内一円に大勢力を有し、戦国大名としては初めて幕府の権力を掌握※三好政を築きました。※この頃の天下統一の概念は少し違ったようです。

 

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この時、三好長慶の石高は200万石で、他の戦国大名と比べても抜きんでていました。三好政権は、室町幕府旧来の政治構造を取り込みつつ将軍・管領の上意とは全く無関係に行動し、国人層の支持を得ることで政権運営を取り仕切った政権で、室町幕府体制との明らかな政治的違いが存在しました。

後に、織田信長もこの手法を採用して政権を作ろうとしましたが上手くいかず、結局足利義昭を追放する結果となりました。

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三好氏の権力拡大

三好氏が飛躍するきっかけになったのが、三好長慶祖父・之長の時代で、管領・細川勝元に従い1467年応仁の乱で東軍として参戦しました。

 

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管領家本家の細川勝元子・政元に嫡子が無かったので、支流の細川澄元を養子に迎え入れると、三好之長はこれを支えて各地を転戦していき武功を上げるようになり、畿内で大きな影響力を持つようになりました。

この武功から、細川政元から細川京兆家の直属の家臣となるようにすすめられ、受諾しました。

これ以降、三好氏は細川京兆家重臣の一つとなりました。

細川京兆家とは、代々管領職を受けた嫡流の家

 

1507年、京兆家の後継者争いで細川政元細川澄之派に暗殺され、三好之長と細川澄元も襲撃される【永正の錯乱】が起こると、之長と澄元は近江に落ち伸びました。

その後、澄之派は、澄之を京兆家の当主に擁立しましたが、同族の細川高国や細川尚春、細川政賢の反撃によって討たれました。擁立後、わずか40日の出来事でした。

 

近江へ逃れていた三好之長と細川澄元は、11代将軍・足利義澄を擁立し権勢を掌握しました。管領となった細川澄元は、三好之長に政治を一任していたと言います。

 

 

三好之長の権力掌握と両細川の乱

政治を思うままにしていた三好之長でしたが、段々と増徴するような態度が多くなり、細川澄元との仲が良好だったとは言えませんでした。そんな状況で、1507年11月に周防に流れていた、10代将軍・足利義稙を西国最大の守護大名大内義興が擁立して上洛してきました。

 

細川澄元は大内義興との和睦を試みましたが、永世の錯乱で共に戦った細川高国の裏切りにより、11代将軍・足利義澄、細川澄元、三好之長は近江に逃れ、大内義興が擁立した足利義稙が将軍職に復帰しました。

 

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その後、細川澄元・三好之長は二度にわたり京都に進攻しますが、1511年に足利義澄が死去したため、義元と之長は阿波に落ち延び、力を蓄えることに…

 


1518年、これまで政権を支えていた大内義興が帰国したことにより、細川高国一人で政治を取り仕切るようになります。これまで安定政権だった細川高国政権に大内義興と言う軍事の中枢を失う事になり、大きな変革期を迎えます。


大内氏の後ろ盾を失った幕府は、将軍職をめぐる跡目争いや、管領家である細川氏・畠山氏内紛、さらには三好氏においても内部抗争が起きていて互いが複雑に絡み合っていました。

近江に落ち延びていた、澄元と之長も好機とみて上洛作戦に踏み切り、一時は政権を奪取しますが、リベンジに来た細川高国にやられてしまいます。

戦いにやぶれた三好之長は斬首となり、細川澄元は播磨に敗走したのちに死去しました。

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細川晴元の裏切りと三好長慶

三好之長が細川高国に敗れた際に処刑され、その子である長秀も戦死していたことから、之長の孫にあたる元長が三好氏を継いでいました。

 

1531年細川晴元(澄元の子)三好元長(之長の孫)は、宿敵・細川高国を倒し京都奪還に成功しています。しかし、権力を手にした細川晴元、将軍・義晴と和睦し、その管領に収まろうとしたことから、三好元長と対立していきます。

 

三好元長が邪魔になった細川晴元一向一揆を背後から操り、三好に味方した畠山義堯を自刃させ、三好氏の本拠地である法華宗の和泉顕本寺も襲い、三好元長も自害に追いやります。【飯盛山の戦い

 

1532年三好元長の後継として、僅か10歳の三好長慶が後を継ぎました。

一方で、邪魔者を排除した細川晴元は、無事将軍との和睦がなり、管領に収まることが出来ました。しかし、利用していた一向一揆が制御できないほどに大きくなり、一揆の大元・石山本願寺細川晴元との和睦が12歳の三好長慶の仲介で成立させる事になります。

 

この時、三好長慶が12歳だったため、晴元は排除の対象にはしておらず、長慶にとっては晴元に恩を売る形になりました。長慶個人の力だけではないにせよ、元長が戦死してわずか1年で三好家の勢力は、細川晴元石山本願寺を和睦させるくらいに回復していた事になります。

 


そして、ここから三好氏のターンになっていきます。

 

1539年、長慶17歳の時に、石山本願寺後ろ盾を経て入京し、摂津の守護代に任命されると、摂津・越水城を居城として室町幕府に出仕しました。


1542年、摂津において力を蓄えた長慶は、四国の留守を預かる弟の三好実休、安宅冬康、十河一存と協力をして、太平寺の戦いで父の仇の勢力を次々と破り、細川家中に父・元長以上の勢力を作り上げることに成功します。


1548年には、遊佐長教と和睦し、その娘を正室に迎えます。同時に細川氏綱と和睦し、主君でもあり、父の仇でもある細川晴元に反旗を翻します。


1549年江口の戦いにおいて細川晴元三好政長※との戦いに勝利し、政長は戦死、晴元と彼に擁立された12代将軍義晴・13代将軍義輝は近江に逃亡しました。

三好政長は、三好家分家の出身で細川晴元の側近として腕をふるう

 

長慶は、細川氏綱と共に上洛をして京の支配権を握り、細川政元以来の細川政権は崩壊して、三好政が成立します。


その後10年にもおよび、復帰を狙う晴元と義輝との交戦を続けましたが、1558年足利義輝と和睦し、1561年には細川晴元とも和睦し、対立に終止符を打ちます。

和睦後も、幕府の指導者として幕政の実権を握っています。

 

三好長慶は将軍と戦いながら、外征も行い、販路を機内・四国に拡大し、最盛期には、山城・丹波・摂津・播磨・淡路・阿波・讃岐・伊予・和泉・河内・大和・若狭などの11か国以上に及ぶ領地を形成しています。

当時、今川氏が3か国、武田氏は2か国、安芸毛利氏が4か国、出雲の尼子氏が6か国でしたので、長慶の勢力は当時抜きんでたものであったことが分かります。肩を並べられたのは、北条氏くらいだったそうです。

 

 

三好政権の崩壊

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1561年、最盛期を迎えた三好政権も徐々に陰りが見え始めてきます。

末弟で讃岐衆を率いていた【鬼十河】と呼ばれた、三好氏の将・十河一存が病死します。さらに、三好義賢が戦死、1563年に嫡男・義興が死去するなどの有力な一族の死が相次いで起きました。


この不運の連続で、長慶自身も気落ちして病にかかり、政権の先行きがさらに不安定になっていきます。

有力な一族が亡くなる中で、様々な政策や軍事的事を三好氏家臣である松永久秀を中心に動くようになり、実績と力をつけるようになります。三好家は段々と、久秀が握るようになって行きました。

 

そして1564年、長慶は弟の安宅冬康を呼び出し誅殺しました。これは、家臣である松永久秀によって踊らされた結果でありますが、自らも精神的な病に犯されていたのも原因とも言われています。

 

そして、同じ年の7月4日に三好長慶飯盛山城で病死します。

享年43でした。

 


後継者の三好義継が若年のため、松永久秀と三好3人衆が後見役として支えますが、やがて対立し、1565年~1568年の3年間互いに内紛を起こしていました。


その後、松永久秀と三好義継は、新たに台頭した織田信長足利義昭に協力し、三好三人衆織田信長に倒され三好政権は崩壊しました。その後は史実通り、松永久秀と三好義継も信長と対立し、滅ぼされることになり権力は信長に移っていきます。

 

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