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豊臣政権が崩壊した理由を検証

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織田信長が天下取りへの道筋をつけ、豊臣秀吉が天下人として成就させ、徳川家康が天下泰平の世を築いたのはみなさんご存じの通りです。

 

織田信長の子孫は、信長の次男である信雄の子孫が旗本や藩主として江戸時代も残り、徳川家康の子孫はあらゆる分家に別れて大いに繁栄して明治維新を迎えました。

しかし、豊臣秀吉の血統だけは、大坂の陣において徳川家康に滅ぼされて途絶えてしまっています。

 

信長、家康と違って、農人出身で一代で天下人に上り詰めた秀吉。

その華やかなサクセスストーリーとはあまりにも対照的な豊臣家の末路ですが、今日は、なぜ短期間で豊臣政権が崩壊した理由を検証してみたいと思います。

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豊臣秀長の死

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豊臣政権が崩壊の理由として、弟・豊臣秀長の死が原因とも言われています。

農民出身の秀吉が天下を統一し、関白まで大出世をした物語を作り上げたのは、まぎれもない弟・秀長の存在ありきでした。

秀吉にとって、唯一の信頼できる存在が秀長で、彼が居なければ秀吉の天下統一は無かったでしょう。

 

秀長は、25歳で初陣を飾り、浅井長政との戦い、毛利攻め、山崎の戦い賤ヶ岳の戦い小牧・長久手の戦い、四国・九州攻めの総大将と、そこには常に秀長の存在と活躍がありました。

その功績により、大和・紀伊・和泉・河内を賜り、110万石の大名にまでなりました。
さらに、従二位権大納言にまでなり、大和大納言と呼ばれます。

 

豊臣政権下での秀長は、兄・秀吉を軍事・内政面で見事に支え、その人望も各大名や豊臣臣下の武将らに信頼されおり、困りごとが有ったらまず秀長を頼れば解決の道筋が見えてくるとまで言われていました。

 

仮に、秀長が秀吉と同じ62歳まで生きたとしたら、秀次切腹事件などは起きずに、秀吉死後の政権基盤を構築していたであろうと考えられます。

1601年に秀長が死去しても、家康はまだ15年生存し、その後何かしら仕掛けてくるかもしれませんが、豊臣秀次が関白として健在していますので、史実のような方法で政権の奪取はできなかった事でしょう。

 

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黒田官兵衛を扱いを誤った

秀吉の天下統一のもう一人の立役者、黒田官兵衛の存在を忘れてはいけません。


以前、戦国軍師ランキングの記事で少し触れましたが、秀吉が彼の能力を恐れるあまり、政権の中枢から遠ざけたことが崩壊の原因ではないかと思います。

 

rekishi-note.hatenablog.com

 

実際に、官兵衛に100万石を与えていたら、秀吉の心配した通りに豊臣の天下を揺るがす事起こしたのでしょうか?


官兵衛は最初に仕えていた小寺政職に裏切られ命の危機にさらされても、小寺氏が滅ん時に、その長男・小寺氏職を黒田家の家臣として召し抱えています。

 

秀吉の家臣となった時、1578年荒木村重に捉えられて有岡城の土牢に幽閉されました。この時に、信長から裏切りの烙印を押され長男・長政の殺害命令が下されましたが、竹中半兵衛黒田官兵衛は決して裏切る男ではないと言わせ、処刑覚悟で長男のかくまって命を救いました。

 

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官兵衛の天才的な能力に恐れるのは分かりますが、秀吉には徳川家康と言うもっと大きな敵がそこにいるではありませんか。小牧・長久手の戦い以降、家康を取り込もうとするだけで、その力を削ぐような事はしていません。

 

もっとも注意すべき家康を、官兵衛のその能力で封じ込める努力をしていたら、豊臣政権の崩壊は避けられたのではないかと思います。しかし、史実では、真逆に進み、豊臣家から遠ざけられたのは官兵衛は、長男・長政を家康に接近させて、正室を離縁までさせて、家康の養女を正室に迎えさせました。


その結果、関ヶ原では東軍の一員として、西軍最大の毛利氏を調略で戦いに参加させず事に成功し、東軍勝利の最大功労者となり、黒田家を筑前52万石の大名に押し上げました。


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豊臣秀次切腹事件

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農民出身の秀吉には、武家の親類者が致命的に不足していました。

そして、自身の子供にもなかなか恵まれませんでした。

唯一、頼りに出来たのが、秀長と正室・寧々の出身である、浅野家の浅野長政が居ました。しかし、秀頼が生まれると、正室と側室の対立から、豊臣家と浅野家は距離を置くようになり、関ヶ原の戦いで浅野家は徳川方につきました。

 

側室の茶々は浅井長政の娘で、浅井家はすでに滅亡していることから、側室からの外戚は望めない状態でした。

そうなると、残された成人男性は豊臣秀次となるわけですが、その秀次に謀反の疑いで関白の地位をはく奪し、高野山に追放後、切腹となります。その後、秀次の子や親族をを全て処刑して秀次の家系を根絶やしにしました。

 

この秀次切腹事件により、後継者はまだ2歳の秀頼だけとなりました。

 

豊臣秀次切腹事件は、正史においては関白である豊臣秀次に謀反の疑いが持ち上がったためとされています。しかし、最近の研究で、ほとんどの識者は、この謀反説を採用する人は、ほとんどいません。現在では、秀次切腹の理由を正当化するために謀反の罪をでっち上げたというのが定説となっています。

 

さらに、秀次の異名とされている殺生関白も、後世のでっち上げであるという説が有力とされています。これも秀次切腹を正当化するための、秀次のイメージ操作キャンペーンといわれています。

 

 

秀次切腹の経緯は現在、確たる証拠がありません。

しかし、嫡男である豊臣秀頼の誕生が関わっている事は間違いないと思います。

 

秀次の関白就任の背景として、3歳でこの世を去った鶴松が死去した直後に、関白職を譲って後継者に指名しました。この時秀吉は、恐らくもう子は授からないだろうという絶望にも似た気持ちがあった事は間違いないでしょう。

 

ところが、秀次が関白に就任した2年後に、淀殿は再び男子を設けます。

秀吉にとっては待望の跡継ぎです。こうなると、実の子に天下人の座を譲りたいと思うのは当たり前の事でしょう。そうなると、既に後継者となっていた秀次が邪魔になります。秀吉にその気が無かったとしても、秀次が自分は排除されるのではと疑心暗鬼に陥るという事も十分にあり得ます。

 

 

その後の豊臣政権は、秀次ともに一族を根絶しにしたことにより、数少ない豊臣家の親族をさらに少なくし、秀頼を支える親藩が居なくなりました。そのため、秀吉は死の直前に五大老(徳川家康毛利輝元上杉景勝宇喜多秀家前田利家)と五奉行(石田三成前田玄以浅野長政増田長盛長束正家)による合議制によって秀頼を補佐していくよう厳命するしかありませんでした。

外様や宿敵・徳川家康に後事を託さなければならないほど、本当に豊臣家には人材がいなかった事が分かります。

 

秀次切腹のきっかけは今だ謎のままですが、どちらにせよ秀頼誕生による秀吉と秀次の確執が、この秀次切腹事件の原因では無いのでしょうか?

 

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