日本史が好きになる?歴史ブログ

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東軍・細川勝元と西軍・山名宗全による応仁の乱の始まり

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上御霊社の戦いの後、数か月は平穏な時が流れていましたが、その間に細川派は反撃の準備を着々と進めていました。

 

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そして、1467年5月に細川派が山名派に反撃する形で応仁の乱が始まります。

 

細川派は京都の東部の室町に、山名派は京都西部にそれぞれ陣を敷き、東軍・西軍に分かれて京都を舞台に激戦を重ねていきます。地方では、両軍に所属した守護代や国人勢力が互いに戦いを繰り広げていきました。

 

応仁の乱中に、将軍・足利義政は両氏に対して、何度も停戦命令を出しましたが、効果はありませんでした。これにより、義政はますます政治に興味が無くなっていきます。

 

応仁の乱勢力図【青が東軍・細川派、赤が西軍・山名派】

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Wikipediaより引用

 

山名宗全細川勝元

応仁の乱の戦況を書く前に、山名宗全細川勝元について書いて行きます。

山名宗全細川勝元にとって舅にあたります。勝元自身も、宗全の実子豊久を養子に迎えており、両者は親戚関係にあたります。

 

細川氏は、南北朝時代から足利幕府の管領を何度も務めてきた名門です。

勝元は、16歳の時に義政の下で管領を務めるなど、若いころから頭角を現していました。京都の竜安寺丹波竜興寺を建設し、医術を研究を【霊蘭州】に書き、他にも和歌・絵画・犬追物※を嗜むなど、多趣味な人物でもありました。

※犬追物とは、鎌倉時代から室町中期にかけて、武芸の上達を目指す武士の間で盛んに行われた馬上弓技の一つ。円形の馬場で、射手が円周から円内を走り回る犬を狙って矢を射る練習をする訓練。

 

山名氏は、代々山陰の守護大名として栄えてきました。

宗全は、嘉吉の乱で将軍足利義教を暗殺した赤松満祐を討った事で名を挙げて、播磨を与えられるなどをして勢力を伸ばしてきました。

一時は、管領畠山持国に対して、勝元と手を組み対抗した宗全でしたが、もう一つの管領家・斯波家の家督争いで細川派と対決姿勢を強め、応仁の乱へと続いて行きます。

 

宗全は、赤ら顔の豪傑で『赤入道』と呼ばれていました。

勝元と同じで、和歌・絵画にも長けており、文芸に秀でた人物でもありました。

 

そんな2人が互いに争う応仁の乱ですが、序盤は東軍・細川勝元が優勢でした…

 

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東軍の足利義視が西軍へ寝返る

序盤戦は、優勢だった細川派でしたが、周防の有力大名・大内政弘が西軍の山名派に付き上洛すると事態は一変します。同じく、西軍の畠山義就の大活躍により、戦いは激しさを増します。

しかし、天皇上皇・将軍義政は、東軍に握られたまま奪回する事が出来ず、立場的には西軍が、朝敵・賊軍・反乱軍のままでした。

 

そこで西軍は、幕府内で孤立していた、足利義視を自軍に寝返らせ、さらに南朝の子孫である小倉宮を自陣に引き入れることに成功します。これにより、西軍にも長期的に戦いを続けられる【大義名分】を得ることになりました。

 

義視の寝返りを受けて、西軍側についていた日野富子が東軍に付き、念願だった実子・義尚の将軍継承を実現させました。

 

応仁の乱は、大きく分けて前半戦・後半戦で分けることが出来ます。

前半戦は、建前上は将軍の継嗣争いでしたが、義視が西軍に寝返った頃から、将軍継承問題とはならなくなり、細川VS山名の権力争いが前面に出てきます。

 

初期兵力が、東軍16万人・西軍11万人で京都市内に各地の武士たちがごった返す事態になりました。

 

大内政弘の圧倒的な兵力により、京都内は西軍に制圧されつつあり、これ以降の争いは散発的になってこう着状態が続きます。

長引く戦乱と盗賊たちの焼打ちによって京の都が焼け野原になり荒廃しました。

かつての多くの守護大名たちが獲得したかった幕府権力そのものが失墜してしまい、もはや何も得るものが無くなった状態になり、やがて東西両軍に争いはやめようと言う気運になっていきました。

 

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山名宗全細川勝元の死と応仁の乱終結

1472年、宗全と勝元の間で徐々に和議の話し合いがもたれるようになりました。

話し合いのさなか、小さな小競り合いが続き、何度も和平交渉が頓挫しました。

ところが1473年、宗全と勝元が相次いで死去すると、話が一気に進んでいきます。

 

1474年には、将軍義政が隠居し、義尚が将軍となります。

義尚が将軍になった事によって、日野富子は将軍と共に室町邸へ残り、富子勢力が拡大し義政の実権は失われてました。

 

一方で、山名・細川両氏の和平交渉は、息子たちによって執り行われて、山名政豊細川政元は和睦をしましたが、大内政弘足利義視を奉じて、まだ抵抗をしていました。

そこで、細川・山名両氏が政弘の討伐を開始します。争いは、小さな小競り合いに終わりましたが、 最終的には将軍義政の停戦命令に政弘が従う形で、11年の応仁の乱が集結しました。

 

この戦では主な、武将たちの戦死もなく、戦後罪になる者もいなかったそうで、京を占拠していた大内政弘日野富子に賄賂を贈り、領土安堵をされました。しかし、京の町は荒廃し、幕府の権威も落ちるとこまで落ち、遠国などの幕府の目の届かない地方では、荘園による支配が崩壊しました。

 

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応仁の乱で兵法にも変化が…

この時代には、名もない農民や浪人が足軽と呼ばれる戦闘員として動員されるようになりました。

これまでは、騎馬による一騎打ちを基本とする、個人戦から集団戦へと戦法が変化し始めたのです。

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足軽とは、【歩行が素早い歩兵】と言う意味で、ゲリラ戦を得意とします。

武士が身にまとう甲冑を身にまとわず、ただ槍や刀を持って縦横無尽に動き回り敵をかく乱しました。戦乱の中各武将たちにとって、より戦闘能力の高い戦いを可能にさせて、応仁の乱の頃は、戦闘の中心を担うようになります。

 

足軽たちは神社仏閣に火を放ち、略奪を繰り返していたので、相手側から恐れられて居ました。応仁の乱で、京都の街にあちこちに火をつけまわったのはこうした足軽たちの仕業だと考えられています。

 

鉄砲が伝来し、多くの戦で使われ始めると、戦いの中心は鉄砲隊や足軽隊による集団戦法に完全に移ります。騎馬武者の衰退は、鉄砲の標的になりやすいことが大きな要因とされてます。

 

のちに登場する、織田信長は、こうした足軽鉄砲隊の占術をいち早く取り入れ、当時最強と言われた武田の騎馬隊に勝利したのは、知っての通りです。

 

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