日本史が好きになる?歴史ブログ

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本能寺の変を知っていても毛利氏は、秀吉を追撃しなかった!?

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1582年明智光秀織田信長を討った本能寺の変が起こったのは、日本人であれば多くの人が知っている歴史的事件ではないのでしょうか?

 

明智光秀は、信長を討ったのち、各大名に同調の書状を送っていました。その中の一つに、織田家の家臣羽柴秀吉が、中国地方で交戦中だった毛利氏にも使者を送っていました。

 

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秀吉はこの時、備中高松城を攻略中でした。

ある日、明智から毛利への使者を取り押さえました。この使者の持っていた書状こそ、明智光秀が毛利氏に対して送った書状であり、その内容は【信長を本能寺にて討ち、明智に同調してね】と言うような内容の書面でした。

 

信長の訃報を受けて秀吉は、毛利に本能寺の事を悟られないように【和睦】をし、明智光秀を討ちに京都へ退却するのですが、この時にもし使者が毛利氏の所へ無事たどり着き、秀吉より先に知らせを受けていたらどうなっていたのでしょうか?

 

今日は、そんな事を想像しながら書いて行きたいと思います。

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毛利元就の遺言 

まず、事実関係から…

 

先ほど、毛利への使者を捕まえたと書きましたが、これは後の創作の産物で、実際には本能寺の近くに住んでいた茶人・長谷川宗仁が秀吉の陣へ使いを出したと言うのが事実の様であります。

どちらにせよ、もし和睦交渉成立前に本能寺の情報が毛利側へ届いていたらどうなっていたかを妄想してみたいと思います。

 

結論から言うと、それでも毛利氏は追撃をしなかったと考えます。

 

理由としては、秀吉軍はすでに備中にまで侵攻しており、毛利領の半分以上を平らげており、お家存続の危機までの所まで来ていました。

また、本能寺の変のタイミングが、高松城の水攻めでにらみ合っていた最中で、既に和平交渉が進んでおり最後の詰めの状態に入っていました。毛利側としても、そこからの本格的な交戦を望んでいませんでした。

 

毛利家の基本的戦略は、亡き毛利元就の遺言で、天下統一を狙った領土拡大ではなく、領土安堵を信条にしていました。安芸一国の国人衆から成り上がった元就は、古くから信頼できる家臣がいませんでした。120万石の大大名になっても決して盤石な体制とは言えませんでした。

吉川家と小早川家に息子を養子として送り、毛利・両川の三極体制で当時の領土を守っていくのが毛利家の生きる道でした。

 

また、織田信長が死んだと言う事は、織田軍による毛利攻めが無くなると言う意味であり、撤退する秀吉軍を追撃する理由が毛利軍にはなく、さらに和平交渉を有利に進めることが出来ます。

 

実際に、高松城攻めの和睦条件で締結した、備中・美作・伯耆の参加国の分割で協議では、最終的に分割は美作の国だけで、備中と伯耆国は一部の地域のみとなり、毛利氏の有利な条件で決着しました。

 

毛利氏の追撃を回避した秀吉は、秀吉が光秀を破り天下統一への道を歩み始める事になり、1591年に全国を平定し天下を統一する事になります。

 

秀吉の天下統一の過程で、その配下になった毛利家は、四国遠征・九州征伐に参戦し、小早川隆景は、筑前筑後37万石を拝領し、毛利輝元小早川隆景は豊臣政権の大老に任ぜられ、重用されました。

この人事には、高松城和睦交渉で、追撃をしなかった事への毛利氏への感謝を表した形だと言われています。

 

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もし毛利氏が追撃をいたら?…

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仮に、毛利軍が追撃をしたのなら、秀吉は光秀を討つが出来なくなり、柴田勝家徳川家康が信長の弔い合戦に勝利していたかもしれません。

勝家が勝利していたのなら、信長の3男信孝を擁し、織田政権の再構築を目指していた事でしょう。また、徳川家康が勝利していたら、徳川政権が早くに成立していたかもしれません。

 

そうなると、豊臣政権下での毛利家の繁栄は無く、幕末の長州藩の活躍もなかったかもしれませんね。

 

さらに、織田政権が成立していたら、政治の中心を京都に置かれていたでしょうし、徳川政権が成立しても江戸には幕府は置かれる事はなく、浜松近辺が日本の中心になっていたかもしれません。

 

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