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戦国時代の三大暗愚、大内義隆・今川氏真・細川政元

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応仁の乱を発端に、約150年に及んだ戦国時代では、多くの戦国武将がいました。

 

戦国三傑と呼ばれる、織田信長豊臣秀吉徳川家康などはその飛び抜けた能力で、数々の偉業を成し遂げました。英雄もいれば、その逆の暗愚もまた存在しており、後世に名を残しているのも事実です。

 

今日は、そんな戦国時代の三大暗愚について書いてみたいと思います。

 

rekishi-note.hatenablog.com

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手にした権力を投げ出した細川政元

タイトルにもある通り、時代順に細川政元大内義隆今川氏真が戦国期における三大暗愚にあげられています。この3人は、活躍した時期も違い、実際には有能な部分もあるれっきとした大大名なのですが、影の所が痛すぎるために後世においてこのような評価が下されました。

 

細川政元は、戦国初期に活躍した人物で、室町幕府管領家・細川吉兆家の嫡男としてこの世に生を受けました。応仁の乱の原因とも言われる畠山政長と戦い破った事で、足利義澄を将軍として擁立し、幕政を掌握しました。

 

将軍以上に実質権力を持っていたことから【半将軍】と呼ばれていました。

外交・内政に腕を振るった政元でしたが、いつしか幕政を疎かにして修験道にはまってしまいました。修験道とは、とても辛い修行を行い人智を超えた能力を目的とするもので、簡単に言えば、仙人等になる修行にはまっていたといことです。

 

また、政元は、生涯妻をめとらなかったので、嫡子が居ませんでした。そのため、3人の養子をとりましたが、後継者を指名していなかったので、自分が細川吉兆家を継ぐために互いにいがみ合うようになります。

 

この兄弟ケンカは、養父政元が暗殺されるまでに発展し、政元死後、養子たちの家督争いはエスカレートし、各地の有力守護大名まで巻き込む事態となりました。

この騒乱がキッカケに、戦国大名が誕生する事になりました。

 

権力闘争に明け暮れた細川政元自身が、手にした権力をキチンと身の周りを整理して放棄しなかったため、全国を巻き込んだ争いになった事が、後世の人々から暗愚と評価されたのです。

 

趣味に埋没しすぎてプロ並みだった大内義隆今川氏真

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大内義隆は、毛利元就と同じ時代を生き、長門、周防、安芸、石見、筑前豊前の6ヶ国を領する大大名であった。当時、元就は義隆に属する国人衆の一人にすぎませんでした。

 

下剋上の気風が蔓延する中、大内領のうち長門・周防は安定してましたが、残る4国は家臣たちである守護代が台頭する懸念がありました。家臣たちの大名化を防ぐため、義隆は領国から離して守護代を身近に置いて、所領地を各国へ分散するなどの対策を行いました。しかし、周辺諸国の勢力が戦国大名化したため、騒乱は絶えませんでした。

 

大内家は広大な領土と、海外貿易の独占により莫大な財を持っており、西国諸国の中では財政基盤は豊かでした。しかし、重臣である陶晴賢が反旗を翻し、大内義隆は打ち取られてしまいます。

 

義隆は、内政面では大きな功績を見せましたが、戦略等の武に関しては平凡としか言いようがありませんでした。一方で、応仁の乱で荒廃した京から逃げてきた文化人たちを手厚く保護し、戦乱で失われたかもしれない文化や伝統を継承しました。

 

実際に、義隆の治めた山口では北山文化と東山文化の融合した、大内文化と呼ばれる独自の文化が誕生し、西の京都と呼ばれるようになりました。

 

このように内政面では、非凡の才を持っていた大内義隆ですが、江戸時代成立後は、質実剛健を武士の本文とするものがあったので、文化よりの内政を重んじていた義隆は、華美惰弱に溺れた愚将という評価を受けてしまいます。

 

 

これと同じ理由で、暗愚扱いされているのが今川氏真です。

 

今川家は清和源氏の名門で、足利家に次ぐ家格があると言われていました。父・義元の代には駿河遠江三河の三カ国を有する大大名でしたが、桶狭間の戦い織田信長に討たれると、氏真が家督を継ぎました。

 

しかし、氏真は酒・男色に溺れ、実権は家老の三浦氏が掌握し、これに反発した家臣たちがまとまらず、その隙をついて徳川・武田・北条により領地は切り取られて、桶狭間からわずか7年で滅亡してしまいます。

 

その後、今川氏は国は失ったものの徳川幕府成立後も、高家として存続が許され、氏真自身も1615年まで生きました。

 

領国運営はからっきしだった氏真でしたが、連歌・和歌に秀でていて、特に蹴鞠は名人級の腕前でした。駿府城では、たびたび蹴鞠の会が行われたと伝えられています。

静岡県のサッカーの熱は今川氏真から来たとか来ないとか…

 

これを見ると、細川政元大内義隆よりも今川氏真の暗愚ぶりは群を抜いています。

仮に、桶狭間で義元が勝利し、上京を果たして天下に覇を唱えても、氏真の時代に今川家は他家によって滅ぼされていた可能性が高いかもしれません。

 

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おまけ…

 

「英雄色を好む」けどもやりすぎは迷惑になる

子孫繁栄は、人間の本能ともいえます。男子たる者、種族保存の行うための行為に、飽くなき情熱を注ぎたいと思うのは本能でしょう。戦国武将においてもそれは例外ではなく、豊臣秀吉大友宗麟はこの時代のツートップとも言えます。

 

豊臣秀吉は、主君・織田信長から【女房が泣くから、女遊びもホドホドにしろ】と言われるほどの女好きでした。そんな人物が天下を取ると、興味を持った女性がいれば、相手が未婚・既婚問わず、手を出しまくったそうです。

 

秀吉は、人質として家臣の妻や華族を近くにおいていましたが、美人妻を持った家臣たちは、遠征などで留守にするのを恐れたと言う記述も残っています。女性の好みは、はっきりしていて、美人で高貴な血筋が好みだったそうです。

 

女好きでは、大友宗麟も負けてはいません。宗麟は若いころ、城下にふらりと出ては好みの女性を求めていたと言います。宗麟に目をつけられた女性は身分関係なく、迫られたそうです。宗麟でなく絶倫です。

 

その好き者は、将軍謁見のために京へ行っても変わりませんでした。城下と違い、京では自分の権威が及びません。そのため、街で見かけた女性をさらってものしたとも言われています。

 

しかし、このような絶倫の日々も、カトリックに改宗してからはパタリと止まったそうです。

 

互いに、絶倫の日々の秀吉と宗麟でしたが、宗麟は3男6女をもうけ全員成人しましたが、秀吉の子供で成人したのは秀頼だけでした。