日本史が好きになる?歴史ブログ

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江戸幕府の主な役職

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徳川家康が征夷大将軍となった際に、約260人の大名と主従関係を結びました。そして、徳川家が行っている政権を幕府と呼び、大名家の治める所を藩と呼びます。

 

このように、強力な領主権を持つ将軍と大名による幕府と藩が土地と領民を統治する支配体制を幕藩体制と呼びました。

 

この体制は、3代家光の時代までに確立されました。

江戸幕府は、この幕藩体制を中心に政治が行われていきました。

 

徳川家康が幕府を開いたには、合戦も減り人々が安定した中で暮らし始めていました。

そのため、家臣の将軍に対する忠誠心が確認しずらくなっていたので、参勤交代や築城、治水工事などを将軍が各藩に対し課していました。

 

 

この他にも、公家や朝廷の権威を抑制するために、禁中公家諸法度を制定するなどして、天皇を政治から完全に排除しました。

 

このように全ての権力を徳川将軍家に集中し、約260年の間江戸幕府として政権を担って行き15人の将軍が日本を治めてきました。中には、自ら政治を行ってきた将軍もいますが、多くの将軍たちは実務を老中・大老・若年寄に任せていました。

 

そのため、一つに権力の集中を避けるために、多くの役職が作られ、主要な役職には複数名配置するなどの措置をしました。中には、1か月交代で政務を交代する事も行ったそうです。

 

もちろん、江戸幕府の最高権力者は将軍ですが、それを支えるために多くの役職が幕府に作られました。

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江戸幕府の主な役職

 

大老

有名どころでは、井伊直弼が大老として政務を行っていました。

幕府の中では、政治全体をまとめる役割を担っていたようです。大老に選ばれるのは、10万石以上の譜代大名のうち酒井氏、土井氏、井伊氏、堀田氏から選出されました。

常に置かれたわけではなく、臨時で置かれることが多く、時代によっては置かれないときもあったようです。

 

徳川家光が【我が右手】と呼んだ酒井忠勝と土井利勝を大老に命じたことから、この役職が始まったとされます。また、4代将軍・家綱の保科正之や5代将軍・綱吉の側用人・柳沢吉保は大老ではないものの、【大老格】として同等の扱いを受けていました。

 

 

江戸幕府史上、大老在職中に殺害されたのは2人で、

 

綱吉時代の堀田正俊は、政策の見解の相違で稲葉正休に殺害されています。

幕末の井伊直弼は、桜田門外の変で水戸・薩摩浪士により襲われ帰らぬ人となりました。

 

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老中

大老と同じく将軍の補佐役として置かれた役職で常に置かれていました。

大老が置かれないときは、幕府の役職の中では最高職となり、大老がある決まった大名しかなれないことを考えると、他の譜代大名の出世の最高職がこの老中と言う事になります。政治の全体をまとめるのはもちろん、外交も担当しており譜代大名から3名~5名選出されました。

 

家光の治世の途中から、ひと月ごとに実務担当者を交代する【月番老中制】を行うようになりました。1867年の幕末期には、月番制を廃止し違う体制を作られたのですが、倒幕の流れは変えられなかったようです。


午前10時から午後2時くらいまで江戸城で仕事をし、帰宅と言う生活を行っており一見ホワイトな感じを受けますが、トラブルが起こるとどんな時間でも自宅に外様大名の使者などがやってくるので決して楽とは言えませんでした。


若年寄

大老や老中の補佐を行う役職で、幕府の重役の一つとされています。

譜代大名から常時4名ほど選出され、鷹狩担当の鷹狩頭、書院番、現在の消防にあたる定火消役等と言った役割を与えられていました。また、旗本や御家人などの幕府直接使える武士を統括する役目でした。

 

 

先述した役割として 

書院番(しょいんばん)

将軍の親衛隊で、三交代制で警備を務めて将軍外出の際には警備も行いました。

江戸時代中頃までは、書院番の中から駿府城代役が出ています。仕事内容が同じ、小姓組と言う役割の人もいたそうです。どうしてわかれていたのかは定かではありません。

 

目付(めつけ)

幕閣・大名から旗本・御家人まで、ほぼ全ての武士の職務態度を監視する役職です。

老中であっても、施策を実行するときには目付の同意が必要だったので、立場の上下と権限が一致しないと言うややこしい事が起こっていました。

 

使番(つかいばん)

戦国の世に伝令や使者から派生した役職ですが、島原の乱以降は戦での仕事がなくなってしまったため、遠国奉行(天領=幕府直轄地の代官)などの監視役となりました。

 

このように、若年寄りは将軍のそばのお仕事から、遠方への連絡役・監視役まで一手に引き受ける役職だったとされています。主に、若年寄りの仕事のできる者から老中が選出されることも多く、こうした地方での仕事が江戸の治世に役に立つことも多かった事でしょう。

 

奉行

寺社奉行、町奉行、勘定奉行の3つを合わせて三奉行といいます。

 

寺社奉行

その中でも寺社奉行が最も力を持っており、全国の寺社の管理、寺社領や門前町における裁判や事件などの監督を行っていました。こちらも、譜代大名から4名選出されていました。

 

他にも、寺請制度の下、当時の庶民の戸籍ともいうべき宗門人別改帳は社寺が全て管理していたため、結婚と離婚の管理や移住、通行手形の発行などの現在の法務省が行うような行政を担当していました。

 

幕府初期段階では、以心宗伝などの僧侶が寺社に関する職務に当たっていたようですが、家光の時代に専属で譜代大名の中から選ばれるようになりました。

 

町奉行

町奉行は、領内の行政や司法を担当していました。

定員は2名で、初期は譜代大名から選ばれていましたが、後に旗本から任命されました。旗本が任命されるようになってからは、町奉行が旗本がつく役職としては最高位とされ、司法・民生・財政の経験を積んだものが選ばれました。

 

江戸の町の司法・行政・治安維持を一手に担っていたので、今でいうブラックな仕事内容で過労死した者も少なくなかったようです。そのほかに、町の防災に関する仕事も行っており、現在でいうところの役所的な仕事をしていたとされています。

 

勘定奉行

幕府における勘定方の最高責任者で財政や幕府直轄領を支配する代官の監督なども行いました。家康が幕府を開いときから設置されていましたが、幕府の財政は安定することはなく、たびたび幕政改革に迫られる事がありました。

 

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奏者番

献上品の内容の確認や、その献上品を将軍に報告するといった役割、また大名や世子に礼儀作法やマナーを教える役割を担っていたとされています。

この職には約20名から30名が充てられていました。

 

京都所司代

定員が1人で3万石以上の譜代大名から任命され、表向きは天皇の守護をする仕事とされていますが、実際のところは皇室や朝廷などに幕府の方針を伝え、監視するための役職でした。

 

大阪城代

大坂の陣で勝利した家康は大坂藩を廃止し、幕府直轄領としました。

江戸は関東にあり、関西方面の将軍の代理として大阪城を預かり、城の警護や西国の大名の監視が主な仕事でした。将軍の代理と言う事で、独断で動いてよいとされていたので、それなりの地位のある仕事だったようです。

 

 

最後に…

他にも、時代に合わせて役職が増えていき、江戸後期になると江戸幕府における役職の数は大名、旗本、御家人合わせて470数もの役職があったとされています。

 

このように、徳川独裁状態を作り、内部分裂が起きないようにし、遠方の大名たちにはそれぞれの国を治めてもらい、法律で朝廷をしっかり管理しました。各藩主たちに主従関係を証明してもらうために、参勤交代をさせ反乱を起こす余力を与えないなどの隙のない政治システムで200年以上の徳川の世が実現しました。

 

細かく書けばまだまだ役職はたくさんありますが、主要な役職は書いたつもりでいますので、参考してもらえれば幸いです。

 

※制作中と書いていた役職の図表ですが、作成中にパソコンが壊れたため時間がかかりそうです。申し訳ありません。他の更新はできますので今後ともよろしくお願いいたします。

 

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